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人を好きなことを軽々しく愛と言うな

先日、長い間恋人ともセフレとも友達とも言えない関係だった男の、LINEとTwitterをブロックした。
なんともありきたりな話だ。友人には「ずっとセフレじゃん、って思ってたから良かったね」と軽く言われた。私も今となってはそう思う。少しずつ思い返す頻度が減っていっている。どんな声で私を呼んでいたか、とか、どんな体温だったかとか、細かい事が思い出せなくなっている。キスもセックスもなんだか気持ち悪いような気がしている。
鮮明に思い浮かぶ五年分の些細な思い出といえば、彼が口元に指を持っていく仕草くらいだろうか。私はその些細な彼の癖がいっとう好きだったから。

私についての話を少しだけしよう。
私の恋愛観は一言で言って仕舞えば「恋愛エンジョイ勢」が正しいかと思う。幼少期から自然に人を好きになるし、息をするように好きだと言えるタイプだった。中学生の頃、初めて誰かを「独占したい」と思った。私はどうも、それが「恋」だと思ったらしい。女にも男にも恋をしているな、と自覚したのも丁度その頃だったと思う。
おそらく私は「知的好奇心」で恋愛をしている人間だ。「その人の持つ情報を全て自分のものにしたい」という知識欲で人に好きだと言ってきたと思う。
私はあまり長い時間を生きていないが、随分長い時間を一人で過ごしていたと思う。私にとって彼に出会うまで好きだった人は皆、私の知識欲を満たすメディアだったと思う。少女漫画にあるような、純粋な他者への好意を理解したいとずっと思っていた。要は白馬の王子様が現れるのをずっと待っていたのだ。
私と彼は高校生で付き合ってからは、くっついたり離れたりを何度も繰り返していた。離れている間は、私も他の人と付き合ったり別れたりを繰り返していたが、誰かと別れるたびに、その人間関係を燃やして去るたびに、理解したのだ。
私は、私以上に人を好きにはなれないのだと。
色々と語ってきたが、結局のところ私の恋愛は自分とは別の場所にある物語のようなものだ。そのページをめくった瞬間から終わりが始まっている。
その人を好きだなと思った瞬間から別れることは決まっているのが、私の恋愛だ。

その定義に当てはまらなかったのが唯一、彼だった。どうしてあんなに好きだったのか、どこがそんなに好きだったのか具体的に聞かれても全く分からない。おそらく彼は他の物語と違って、終わりのない話だったのだと思う。完結する事なく、付かず離れず、私が離れていても彼は私との物語を、持ち続けていた。そう言う安心感が好きだったのかもしれない。
私はこれが愛するって事なのだと思っていた。いつか終わる恋とは違って、家族のような愛を私は他人に送っているのだと。
都合の良い女を辞めようと思ったのは、些細なきっかけだった。フラれたからだ。丁度就職活動の前だったから、今付き合うと気が散って困る、とかなんとか。
なるほどなあって。
私が愛だと思っていたのは結局、好きと言う肥大した感情だったのだ。長い時間にそれは自分じゃ抱え切れないほど巨大になっていて、あげることも出来ないまま、私はそれを捨てた。

今まで付き合った男はみんな私に愛してる、と言った。
辞書で引くと、愛すると恋するは同義らしい。だからきっと、あのLINEの薄っぺらい5文字も、ラブホの安っぽい照明の下で言われた言葉も、正しい使い方だったと思う。
私が家のマンションの踊り場で言ったそれも多分間違ってない。
でもやっぱり、私は「愛してる」に謝りたいとずっと思っている。軽々しく貴方を、誰かにぶつけてごめんねって。
愛は言葉にするものじゃない。当たり前にそこにあるものなのに、ごめんねって。

別れてみてから、ふと日常で彼の痕跡を思い出す時、それが自分の一部になっていることがある。眼鏡をかけている時の自分が好きなこと、美味しそうに甘いものを食べるのを、当たり前にしてること、黒より白が好きなこと、そんな全部が自分のことのように好きな時、私は彼を愛していると口に出してみる。
それは、青く細かい粒子になって、セミの声にかき消されて消えてしまうけど、ああそうだったなって、納得できたりする。
私にとって恋愛とは、その一瞬のためにあるのだ。

#人生 #エッセイ #恋愛 #自分語り

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