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それなら一人で観てよ


これくらい空が暗かったらなあ、って思う。あの日は8月で、明るい三日月が出ていて、そうじゃなくても沢山の携帯の光で、昼間みたいに明るかった。
だってさあ、仕方ないよね。好きだったんだもん、まだ。
一緒に花火観るのが私でよかったって、思ってたよ。
ナナちゃんのさ、365日中のたった一日を、ちょっと独占出来て嬉しかったんだよ。
楽しかった?そっか、私は全然。
そう言うと彼女は、傷付いたみたいな顔をした。いつもこう、こうやって何も知らないチワワですみたいな顔をして。
ごめんねって、音階みたいに言う。薄っぺらいアイドルソングのサビくらいの軽さで。
まるで思ってない。なんで謝ってるのか分かってない。だからどうせ、何か理由があって私のところに来た訳じゃないんだと、分かりきっていた。
車内に沈黙が落ちている。月のない空は真っ暗で、私はオリオン座を目で追うことしかできなかった。
何か話さないと、って彼女がソワソワと肘を指で叩いている。
変わってないね、その癖。
私は5年ぶりに会ったさっきも、そうは言わなかった。

扉についたスコープを覗いた瞬間、心臓が跳ね上がった。こんな時間に、そんな表情で、来るような人ではないと思っていたから。
一瞬見間違いかと思って、冷たい扉に額をくっつけた。今まで忘れていた彼女の名前、ええと、そうだ。
「ナナちゃん…?」
もう一度スコープを覗くと、彼女の白い指が忙しなく上下しているのが見えた。何度も繰り返し見た彼女の癖。
「お願い、開けて、ナル…」
消え入りそうな声に私は、迷うことなく防犯チェーンを外していた。胸に飛び込んできたナナちゃんは、大学の時と変わらず小さくて細かった。
肩を震わせる彼女の耳に、金のピアスが付いている。ほんのりと雨の香りが、冷たいダウンから香った。そうだよね、東京は雨だから。
あんな遠くから、わざわざこんな辺鄙な海辺までナナちゃんは私に会いに来た。
だから、私は何となく気づいていたのだ。彼女の白い頬にも爪の間にもこびりついてる、赤黒いそれが、涙に混じって頬を流れ落ちていくのを、私はパーカーの袖で擦って消した。
長い間音信不通だったとはいえ、彼女のことは噂で聞いていた。大学時代から変わっていないんだな、相変わらず男の趣味悪いよ。
何も聞きたくはなかった。私が疲れるだけだし、何を言っても無駄だから。
「ナナちゃん、ここ寒いから、とりあえずあがって」
ナナちゃんはほとんど前に倒れ込むように、桃色のパンプスを脱いだ。高いヒールに同じように血がついていた。あーあ本当に。
昔から彼女の、こういう適当さが嫌いだったな。
ソファに座って、両手で顔を押さえて震えている彼女の格好をまじまじと見る。淡いグリーンのフレアスカート、白のセーラーカラーブラウス、いつのまにか開けた金のピアス、明るい髪、全て知らなかった。
インスタントコーヒーの、封を切る手がどんどん冷たくなっていく。そっか、私も冷静になってきてるんだ。彼女を部屋に入れてから聞こえなかった全部の音が、戻ってくる。
ヤカンのお湯が沸いてる甲高い音、彼女の携帯のバイブ、私の浅くて早い呼吸、ナナちゃんの消え入りそうな「殺すつもりはなかった」が繰り返し、繰り返し聞こえてくる。
またヨリを戻したんだね、なんて言っても遅いだろう。彼女の禿げたマニキュアが、全部物語っている。彼女にはもう行き場がないんだろう。だから私は、震える左手首を押さえて、かろうじて微笑んだ。
「ナナちゃん、コーヒー淹れるけど飲む?」
彼女が呆然と私を見る。その大きな瞳は、安っぽい色のアイシャドウに縁取られても、キラキラと宝石のように輝いていた。
よかった。
貴方が美しいままでよかった。私が見つけた貴方の美しさが、少しも翳っていなくてよかった。
私を選んでくれて、本当によかった。

強い海風が、私のアパートのベランダを揺らしている。今日は嵐だ。でもこの風が雲を晴らして、星が良く見えそうだな、とどうでもいいことを考えてしまった。
彼女の顔からはすっかり表情が抜け落ちて、黙っていればお人形のようだ。薔薇色の頬がコーヒーの湯気に滲んでいる。
「ケンちゃんを覚えてる?彼と、復縁したの、一年前」
何だっけ、そいつ。ケンタだかゴンタだか知らないけど、一個上の、ナナちゃんの二人目の彼氏。
「ねえナナちゃん、その首…瞼の上も」
彼女がファンデーションで隠していた黒々とした指のあざや深い傷跡に気付く。私の訝しんだ声に、大袈裟に肩を揺らして伸びっぱなしの髪で、隠すフリをした。
「えへ、やっぱり目立つよね」
見てくださいって顔だよそれは。とは言わなかった、馬鹿馬鹿しくて。
「ケンちゃんは、仕事が上手くいってなくて、でもいつもは優しいんだよ。大学の時から全然変わってなくて。…今日、車に乗ったら、急に…あたし、死ぬと思ったの、それで…本当に殺すつもりなんか…」
ガクガクとナナちゃんが震え出す。まだなみなみとコーヒーが入っていたマグが、テーブルに倒れた。白い木のテーブルに、暗雲が立ち込める。人事過ぎて拭う気にもならなかった。しみになるけど、明日でいいや。
「これからどうするの?」
どうしてこんなところまできたの?とは口が裂けても言えそうになかった。
乾いて粘着く舌を、コーヒーですすいだ。濃いめに淹れたから、苦すぎて痺れるようだ。
どうしよう、彼女は平坦に言った。
またそれか、思わず天を仰ぎそうになる。
きっと彼女の車には、多分そのケンちゃんの車だろうが、まだ死体が横たわってる訳で。きっと血で汚れたシートとハンドルをわざわざ握って三時間も車を走らせた訳で。何でもない顔をする努力も、助けてくれとも言う勇気もなく、彼女はここで悲劇のヒロインみたいに泣いている。
目眩がした。
こんなにも変わらずに琥珀のような美しさのままの彼女に。
彼女を樹液のように甘く包み込んで固めていた、彼女の世界に。
あの時だってそうだった。私が被害者です、みたいな顔をして、ナルなら助けてくれるよね、許してくれるよねって態度を隠そうとせずに、ペラッペラのごめんねで、私に微笑みかける。
整ったその顔。こぼれ落ちそうな大きな瞳、真っ直ぐ通った鼻筋、花びらみたいな薄くて小さな唇。無邪気で子供のような、明るい笑顔。見たくなんてなかった。
もう見たくないから、好きでいるのをやめたのに。
こんな世界の終わりみたいな夜に、なんで私を選んだの?
聞けなかった。聞くくらいなら、死んだほうがましだ。
好きでいるのをやめただけで、嫌いになんてなれなかったのだから。選ばれた私の負けなのだ。あの時選ばなかったのは、貴方なのに。
「…行こうか。きっと今から行けば、朝日が綺麗に見えるから」
「どこへ行くの?」
「…車の荷物、捨てないといけないでしょ」
私はナナちゃんの手を取った。細くて小さくて、柔らかい彼女の手を、もう一度握れて、ああ本当に。
大学時代から変わってないのは私の方だったと、その時やっと気付いたのだ。

車を止める。
私が知ってる自殺の名所なんて、ここしか知らない。この辺の海は海流が複雑だから、死体が上がりにくいのだと、言っていたのはどこの誰だったっけ。
血生臭さには、すっかり慣れてしまった。初めて見た人間の死体にも、特にこれといった感情は湧かなかった。重くて、冷たくて、ナナちゃんと同じ香水の匂いがする荷物だな、くらいの感想。
とにかく部屋中のありったけのタオルや布で巻いて、ガムテープを何重にも貼り付けた。
運転席の血は、出来る限り拭き取ったけど、無駄だろうな。
ナナちゃんは白い指を上下させながら、俯くだけだった。そうだろうな。一目でわかったよ。
重い荷物の足の方を持ってる彼女の、浅い息遣いはあいにく遠くて聞こえなかったけど、投げ捨てた2秒後くらいに聞こえた、重い水音は確かに私たちの耳に届いた。
「…これも捨てた方がいいよね」
「うん、お願い」
真っ暗な海に、なるべく遠くに行くように投げてみたけど、波が砕ける大きな音に掻き消されてよくわからなかった。
断崖絶壁の先っちょあたりで、私たちは並んで腰を下ろした。
ポケットにたまたま入ってたタバコに火をつける。
「ナル、一本ちょうだい」
「…吸うの?」
「うん」
「ブルーベリーだよ」
「…?別にいいよ」
そうじゃないんだよ。
ぎこちなくタバコを咥えた彼女を、頼りないライターの灯りで照らしながら、私は泣きそうだった。
絶対吸わないわって言ってたじゃん。
私が吸うたびに、わかりやすく嫌そうにしてたくせに。
わずかなタバコの灯りだけで、他には何も見えないのに、貴方が横にいるだけで、貴方がどんな顔なのか思い出せてしまう。
「二人でさ、花火を見に行ったよね」
「あ〜懐かしいねえ」
「いっぱい写真撮ってさ、ベリーがいっぱい入ったハイボール飲んだよね」
「そうだった?よく覚えてるね」
「うん、だって楽しくなかったもん」
「…そんな風に、思ってたのは知らなかった」
ごめんね、って音を私は聞かなかったことにした。だってここは寒くて、耳がちぎれそうなほど強い風が吹いていたから。
大学3年の夏、ナナちゃんはケンちゃんと付き合っていた。
私は1年の頃からナナちゃんのことが好きだったし、実際何度も好きだって言った。私にしなよって結構本気で言ってきた。
だけどやっぱりダメだった。ナナちゃんは私ともケンちゃんとも、二人で花火大会行こうねって約束を、それぞれしていて、それで、なーんて。
忘れていたの、だってさ。私にどうして欲しかったの?
私がどれくらい惨めだったか、ナナちゃんは一生分からないだろう。女だから、友達だから、貴方を好きだという弱みがあるから、許されるとでも思っているのか。
でも私は勝てなかったのだ。
「ナナちゃん、これからどうするか決まった?」
「…私どうなるんだろう、捕まるのかな警察に」
「捕まるに決まってるよ、殺人と死体遺棄だよ」
「…でも仕方なかったもの」
私は短くなった吸殻をぐり、と石に押し付けた。
「ねえもし、キスしてくれるなら、ここから一緒に飛んでもいいよ」
空がうっすらと明るんで、一面の群青に彼女の美しい横顔が浮かび上がっている。まだ朝日は遠い。
待つくらいなら、私のものになって欲しい。もう朝なんて拝まなくていいくらい、貴方に絶望してほしい。
ねえナナちゃん。貴方は、自分は何も悪くないみたいな顔をしてるけど、必ず、絶対地獄に落ちるよ。貴方は殺すつもりで殺したんだから、ケンちゃんを。
ケンちゃんだったものの顔には、両方の目にボールペンや先の尖った工具が、詰め込めるだけ詰めてあった。執拗に抉るように、ぐりぐりと何本も。
調べれば簡単にわかるだろう、運転席の缶コーヒーに何か混ざってることくらい。
私を選んだじゃないか。
こんな最後の最後で、私を選んでくれたじゃないか。
もう二度と会わないはずだったのに、友達にだって戻らなかったのに。貴方はここに来た。
それって貴方だけ変わってしまったってことでしょう?
私はあの夏に取り残されたままでいるのに。私の恋心の責任くらい取ってよ。
本当に死ぬ気はなかった。
私はただ、彼女とキスしたかっただけなのだ。
もう一度会えたのに、彼女を許す気なんて私にはもうこれっぽっちも残っていなかったから。貴方とどんな関係も望みはしないけど、一緒に地獄に行けるなら、味気なかった5年間もうかばれるような気がした。
水平線が白んでいく。
もう時間がないよ。
朝になったらこんなコーヒーみたいな夜は綺麗さっぱり拭き取られて、正しい社会が、私たちのこと何も知らない他人達が、現実に連れ戻そうとするよ。
貴方は冷たい雨がいまだ降る、東京なんかに戻るの?
金の矢みたいに朝日が、私たちの輪郭を溶かしていく。ナナちゃんの頬に落ちる、透明で、目に刺さるほど輝く涙が、私に近づくことなく落ちた。
「ありがとうナル。ナルに出会えて、あたし良かったな」
私が欲しかったのは、そんな吐き気がしそうなくらいさ、つまんない言葉じゃない。
たった一瞬の、冷たくてブルーベリーの味がする、キスだけだったんだよ。

「もう、貴方を好きでいるのやめるね」
ナナちゃんにそう言った時、私は嫌になる程思い知らされてしまった。まだお祭りの熱気が立ち込める、満員電車。カップルの甘い囁きに、疲れたってぐずる子供の泣き声。日焼け止めの香り。ゴミが入ったビニールが擦れる音。浴衣の合わせが緩んで、白い鎖骨が剥き出しになってて。
ああ彼女にとって私、特別じゃないなって。
目を見てわかった。わざとらしい申し訳なさそうな眉。
どれだけ都合のいい相手だったんだろう。
ナナちゃん、私ね、貴方に一人で行けばって、言えなかったこと後悔してるんだよ。もうずっと、あの花火を見なければ良かったって。
そしたらさ、多分ケンちゃんと一緒にこの心も海に投げれてたと思う。
貴方に自首を勧めることが出来てたと思うの。
「すみません、警察のものですが。山口鳴海さんでよろしいですか?森奈々子さんと、安井健太さんのことについてお話を伺いたいのですが」
冬の太陽ってこんなに眩しかっただろうか。私はノロノロと首を振りながら、自分のつま先を見つめていた。なんて現実感がないんだろう。
「二人に何があったかなんて、私知らないです」
なんだかいろんなことを確認されているようだったが、一つも耳に入らず、私はかろうじてそれだけを言った。
私は結局、彼女を引き止めることも一緒に死ぬことも出来なかった。朝日がすっかり登った頃、ナナちゃんは私をアパートの前で下ろして、どこかへ行った。
じゃあね、と言われたが、きっと二度と会えない予感があった。
その2日後、思ったよりも警察は早くきたが、ケンちゃんは行方不明という扱いで、捜索願が出されたばかりのようだ。
「森奈々子さんとはどういったご関係ですか」
「…大学時代の知人ですが」
もう知人ですらないけど。
一緒に死体を海に投げたってだけの、赤の他人かもしれない。
「今朝、奈々子さんが死亡した状態で発見されました」
「…は」
ひゅうと、喉が一気に縮んだ。シボウ。しぼう?それがどんな意味なのか理解出来なかった。やっぱり私はあの崖から、ナナちゃんと一緒に身を投げたんじゃないかと疑う。
海面に叩きつけられる前の2秒間で見ている、悪い走馬灯だこれは。
「ここからそう遠くない公衆トイレで、首を吊っているのをサーファーに発見されました。遺書は一言だけ。ナル、というのは貴方のことではありませんか?」
無骨な指に摘まれているポリ袋には、タバコの空き箱のかけらが入っていた。
ナル、ごめん。
たったそれだけ。
「…人違いです。森さんとは5年前から今まで一度も会ってませんし、連絡もとっていません。私が知っているのは彼女のインスタだけですし、ただそれだけです」
私は至極冷静に、淡々と嘘をついた。
警察は、まだ何か聞きたそうだったが私が繰り返し無関係だと訴えると、額面通りの言葉を述べて帰っていった。
扉が閉まった途端、足の平衡感覚がなくなる。
よろめきながらシンクに両手をかけた。猛烈な吐き気が襲ってくる。脳みそがぐるぐるとかき混ぜられて、今までの幾千もの夜がばちばちと目の奥で弾けている。
あの永遠みたいに美しくて、私たちだけの夜が流れ落ちていく。
貴方になんとなく選ばれた、名前もない星屑みたいな私が消えていく。
やっぱり貴方は、そんな言葉で、私を共犯にすらしてくれないんだ。
貴方は悪くないみたいな顔で、ナナちゃんはケンちゃんを選んだ。
私は選ばれなかったのだ、最後の一つに。
「馬鹿みたい」
言えなかったなあ。もう二度と言えないのに、言わなくたって私は友達Aなのに。
どうして私だったのって聞けばきっと、正しく絶望できたはずなのに。
貴方が死ぬのを、止められたはずなのに。
神様どうか、ナナちゃんを天国に連れて行って下さい。
そして私が死ぬときは、地獄に落としてください。彼女に会うことが二度とないように。
嘘なんて一つもつけなかった彼女を、どうしてあの崖から落としておかなかったんだろう。
綺麗な部分なんて一つもない私の涙が、排水溝に流れていく。怒りと憎しみで頭がおかしくなりそうだ。
ナナちゃんを殺したのは私。私なんだと思わないと、ショックで一瞬も息が出来そうになかった。
私はただ、貴方の特別になりたかっただけ。
あの月みたいに、たった一瞬の花火なんかより、貴方をずっと愛していたのは私だったのに。
彼女がこぼしたままのコーヒーを私はやっと目に出来た。
そこにナナちゃんはいない。
真っ暗な海みたいな苦い液体の中、彼女が落としていったピアスだけが、ポツリと金色に光っていた。

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