【短編小説】提灯
僕は、若き深海魚の研究者だ。これまでにも幾つかの論文を発表し、界隈では『若き天才研究者』などと評価を受けている。自分で言うのも何だが、ルックスもそこそこ良い方だと思っている。それ故か、新聞でも『イケメン博士』なんて記事で掲載されることもしばしばある。悪い気はしない。
ちょうど、僕とキャラが被っていた海洋学の博士が業界から姿を消していたので、それによる押し出し的な面もあったのだと思う。
一頻りの作業を終えた僕は、水族館へ向かった。年間パスを入り口で翳し、クラゲのコーナーからアシカやペンギンが水中を奔る住処を眺める。
薄暗い館内を照らすのは、群青色の心を底からくすぐるライト。殊に神妙な雰囲気を醸すのは、深海魚を多く泳がせたコーナーだ。『まだ見ぬ世界へ』と仰々しく銘打っていると思うかもしれないが、深海魚というのは浪漫そのものだ。
まだ誰も知らない生き物が、海の底をゆらゆらと歩いている。我々が暮らす日常の10000m下でも、同じような日々が繰り返されていると思うと、僕の瞳は鮮やかな光沢を得る。今日は、新たに『あんこ』と名付けられた子が水飛沫をあげたというので、その
『あんこ』君をお目当てに来館した。
水槽を暫く眺めていると、砂埃が舞う暗く静謐な水の中から、美しく浮かぶ光が見えた。まるで、深海で命の灯火を受けたかのような光だ。
そっと此方へ寄ってくるその光に、僕はその光沢を帯びた瞳を奪われた。人目など気にせず、僕は水槽が鼻息で白く濁るほど近くに立った。
最早、そのまま水槽へ入り込んでしまうのでは、と思うほどであった。始終遅々と此方へ迫り来るその灯火は、周りを走る深海魚たちも、忌憚をおぼえて退いていたように見えた。
「美しい」あまり口許を動かさずに、そう呟いた。
刹那、灯火を手燭に与えて寄る大きな体躯が、砂埃から姿を現した。
惹き込まれる感覚が頂点に達した瞬間、僕の視界から光が消えた。見えるのは、辺りを囲む砂埃と、鏡の手前で幾度も凝視してきた、私の顔だった。
「待て……なんだこれは……!おい、待て、待ってくれ、僕よ!行かないでくれ!」
張り裂けるほどの大音声も虚しく、僕の顔を持つ人には届かない。よしんば届いても、その人は止まらずに行進を続けるであろう、ふとそう感じた。
徐々に去り行くその人の背は、高揚を纏っていた。
───「ありがとうございました」
若々しいスタッフの声に耳を傾け、わたしは優越感にしっとりと浸った。
「やっとこのときが来たよ。わたしと同じように深海魚に魅了された人だろうな。無理もない、あんな光に魅せられちゃあ、逃れることも出来ない」
『あんこ』君は、閉館となってしまう別の水族館から譲り受けた子である。見る人を惹き寄せる光を垂らし、かつての水族館でも人気者だったそうだ。
「ま、せいぜい頑張りな。『あんこ』君」
先ほどの水槽の中には、『若き天才研究者』の魂を光に灯したチョウチンアンコウが、次なる天才を求めて、ゆらゆらと漂っている。
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