誰かが悪いことをした時に人格まで否定する人間は"損"をしている

何か自分にとって嫌なことをされたりとか、有名人が何かの案件で炎上するとか、そういった時に誰かの人格までも否定してしまう人間がいる。そういう人はとても損をしているんじゃないかな…と。

例えば、炎上した著名人のSNSに付くコメントを見ると、これ見よがしにその件とは関係のない悪口まで書かれているところをよく見る。「こいつはこういう悪い人間だったんだ」「顔が不細工」「痛々しい」みたいな。

それに限って言えば、その人を批判する流れのついでに叩いてストレス発散をしているだけなのかもしれないが…。(それはそれで問題だ)

身近な話で言えば職場の同僚の誰々が嫌いだとか、そういうのはよくあると思う。

ただ、そうやって「嫌い」とか言ってその存在全てを否定してしまうことは勿体無い気がする。

職場でのある部分に関しては不満かもしれないが、そもそも職場という状況じゃないところでその人と会っていれば物凄く気の合う友達になれるかもしれない。

そのように一面だけを見て全てを否定してしまっている、見えないものにしてしまうのはとても勿体無い。その人と気が合う部分があるかもしれないし、その人から学べることがあるかもしれないのにそういったチャンスを放棄していることになるからだ。

私が意識しているのは「ウザい」と思っても、「こういうところが嫌だ」と行動に対して考えるのであって、「だからこの人は嫌」とならないようにすることだ。

さらにステップアップした話をすれば、その人の悪い部分ではなく、良い部分を上手く引き出せるようにすることを考えるのだ。その方法は意外と簡単で、その人の良いと思うところをしっかりと評価してあげることだ。何か手伝ってくれた時にはしっかりとお礼を言い、「君は優しいね」と言ってあげる。そうすれば、きっとその人はあなたにとって「優しい人」として振る舞ってくれやすくなるのではないだろうか。

そのようにして、悪い部分を見ても全てを決めつけない。コミュニケーションにおいても自分の気づきを増やす意味でも大切なことだと思う。

今日の注目ニュース

本人的には故意にマスクを外そうと思ったのではなく、盤面に集中して着用するのを忘れていたのだという。人間なのだからこういう風に忘れる事態というのは発生しうると思う。異議申し立ての内容としてはそのあたりの過失と故意のルールが曖昧だという方向らしい。ルールについて見直す必要があるだろう。

そもそも、安倍氏銃撃の件から旧統一教会の方が明るみに出たものの、そのための法律を作るべきなのだろうか。法律とはやはり世間の注目という後押しがあってこそ速やかに作られるものだな。まあ、作るなら作るでやった方が良いのかもしれんが、被害があった場合にそれに対して現在の法律で対処可能という話ではないのだろうか。

投稿されたものが過激な内容でその影響によりイベントも中止となってしまったようだ。誹謗中傷などで開示請求をしたインフルエンサーによると、多くの場合は「イライラしていた」等の言葉を並べて謝罪してくるらしい。たまにそういう言葉を平気でネットに書き込んでしまう人がいる。

これは結構便利だ。人気商品だと、夜に行けばとっくに品切れになっていたということは色々な飲食店で起きる現象である。スシローの店舗を見ると自動会計やお持ち帰り専用の棚ができるなど、かなり利便性は向上している。今回の件もこうした仕組みができてプラスに作用したという見方もあると思う。

小6まで無料ってなかなか範囲が広いな。それでたくさんの子供がいる家族が来店してやっていけるものなのだろうか。一蘭は他のラーメン屋に比べると比較的値段設定が強気だと言われたりはしている。そういった部分でカバーしてやっていけるということだろうか。

TikTokの大きな特徴の一つとしてフォロワーが0だとしても視聴維持率などの評価が高ければ多くの人に閲覧されることが挙げられる。そういう意味でも弱者に優しいみたいなところはあるかな。フィルターがあるおかげかコメントも比較的平和。有効に活用できれば良いが、無害な動画でも心に毒になることはある。自分より凄い人を見て疲れるとか。

今日の一言

久々にポーカーやるけどルール覚えてるのだろうか?家に帰ったら復習するか。

来週まで仕事がしばらくない。その間にクラウドソーシングに応募してみようかな。






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