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【本質】自由と責任は表裏一体の関係である

どうもつーさんです。本日も注目ニュースをピックアップしてコメントしていきます。

その前にちょっとした小噺を挟んでみます。パッと読めるので是非最後までお付き合いください。

自由と責任の本質

「小学生の頃に戻って何にも考えずに校庭で遊んでいたい」

SNS、飲み会の場、ネットでの記事といった場所でこんな意見を聞く。あなたはどうだろうか?こんな風に考えるだろうか。

私は若返りたいという欲求はあっても小学生に戻りたいとは全然思わない。小学生というのは親や先生の都合に合わせなければならず、例えばご飯のタイミング一つでも自分の思い通りにはならない。家庭にもよるかもしれないが、今から何処かに出かけたいとか、何かを買いたいという欲求を叶えることも小学生には難しい。

しかし、その反面で小学生が窓ガラスを割ったり、ひょっとすると駄菓子屋さんからお菓子を盗んだとしても、親や先生が代わりに責任を取ってくれる。謝るべきところに謝り、こっぴどく叱られる事はあっても結局は大人がどうにかしてくれるのだ。

ここに自由と責任の本質があるのだと思う。親や先生に甘え、遊びたい時に友達と遊んでいる小学生は自由なように見えて、全くそうではない。

最初に述べたような発言や考えを持っている人は、社会人になって自分の責任が大きくなっていることに耐えられなくなっているのかもしれない。責任に耐えられないから、誰かに責任を代わってほしい。仮に自由が縛られることになっても、責任が無くなるのならそれでいい。そんな風に考えてしまっているのではないだろうか。

誰かに依存して自立できていないのは、きっと不自由だ。自由を得るには自立をし、あらゆる責任を自分で受け止めなくてはならない。そして、その為には「常に自分の頭で考える」ということが必要だ。着る服から食べるものまで全てを自分で決める。そうした責任感を自分に持てないと、おもちゃ売り場で親に駄々をこねる子供のように会社や社会に不平不満を言うだけの存在になってしまう。

自分の頭で考えよう。自立しよう。

今日の注目ニュース

この事件、彼の母親が亡くなって死体遺棄なりをして死亡した事実を隠していたのかと思ったら、死亡届は出していたそう。確かに不正受給は問題だが、年金事務所がしっかりと対応していなかった事が誘発した責任も問うべきかと。

「なぜ使わないのか?」というのは一重に面倒だからというのが答えになるだろう。あらゆるサービスなどに付き纏う問題だ。今後は電気自動車や燃料電池車が増えていくだろうが、そんな時に「なんでまだガソリン車なのか」と問われれば変えるのが面倒だからとかがアンサーになる。すぐに全てが変わるのは難しい。

香港は国の方針に意見をするだけでも逮捕されるようになり、彼女はその見せしめになってしまったのかもしれない。12月3日は彼女の誕生日だったようで、残念だ。

どんなに景気が悪くなっても、その時だからこそチャンスを虎視眈々と狙う人もいるのだ。要は何がいいと決まってるのじゃ無く、臨機応変な対応力。簡単な例で言えば、リーマンショックで景気が悪くなった時には「景気はなぜ悪くなったのか?」みたいな本が売れたりする。つまり、状況によってそういうチャンスや需要が新たに生まれていて、俯く間も、嘆く時間も惜しんでそのチャンスに飛び付く人たちがいるということだ。

とても面白い!単純にPRと言って誰かのサービスを無味乾燥に伝えるのではなく、「どうすれば反応してくれやすいか」という方法を徹底的に追求した形だ。その過程を生み出す具体的な行動が面白く、その過程を生み出すまでの行動力が素晴らしい。

終わりに

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

毎日更新をしていると、「ネタに困るなぁ」などと甘えた考えが浮かんだのですが、馬鹿でした。

それは、ただ単に自分がアウトプットする何かが無くなったというだけのこと。当然自分の中に何もないのに発信もクソもない。すなわち、インプットが絶対的に足りていないのです。だから、甘えを捨てて質よりもとにかく圧倒的な量を取り入れることに主眼を置きます。スキマ時間も逃さずに少しでも多くの情報を頭に放り込む。

効率よく、大量に。その中でどうすれば質の高い情報をより多く取り入れられるかという工夫も考えながらやっていきたいと思います。

本日はここまでになります。よろしければスキボタンをお願いいたします!

それではまた明日





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