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「アーリャさん仕事のできない雪ノ下雪乃」との批判は、ラノベ読者からも劣化ラノベと認識されたか?

ロシデレを散々語ってきた身としては、アニメ版をどう語るべきかと考えていた。ただ、アニメになったことで多くの人間に作品を認知してもらう機会が多くなった一方で、一般層とのズレが目立っていた。

これは特にライトノベルではありがちな問題ではある。

ただ、『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』に関してはさらに違った。この点というのは、自分が今まで仮説として考えてきた部分の答えになるような話であった。このような考え方は、さすがに盲点であった。

今回はこの盲点と言える、ライトノベルの下位互換の必要性について語っていきたい。


■なぜ、比較対象が「雪ノ下雪乃」だったのか?

アニメが放送されての評価が「アーリャさん仕事のできない雪ノ下雪乃」。これは的確に人物含めて、作品を評価していると笑いながら思った。

ただ、私自身「雪ノ下雪乃」が出てくる作品、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は未読、未チェックなのだが、なぜ比較対象がこのキャラになったのか?

私は本作を「かぐや様は告らせたい」を下敷きにしていると考えているだけに、そのヒロイン「四宮かぐや」と比較されても問題は無いはず。

そもそも「仕事のできない完璧超人」など、特定のキャラを避ける方法もあったはず。こうした方が他作品にも影響なく素直である。(まあ、完璧超人自体はキン肉マン由来ではあるが)

それだけにもっと有名なキャラ、当たり障りない単語でなく、ライトノベル同士で比較したのか?

それを紐解くにも過去のロシデレ考察の際にも触れた、コミカライズ担当のこの発言を再度、見ていこう。

この発言通り、ロシデレを見る層での知名度は「四宮かぐや」を知らないのとしたら、ライトノベル同士で比較対象にするのは理にかなっている。

さらに同じラノベで「仕事が出来ない」とキャラの劣化具合を指摘されていることになる。

これはラノベを見る層ですら、アーリャのキャラクター設定が擁護できないことを示していないだろうか?

この結論に至るにはもう少し、議論、検討が必要ではある。それはこの先で語っていく。

ただ、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の二次創作において、「HACHIMAN」という概念がある。
これは原作と関係なく、メアリー・スーの一種だけに不快に思う人も多く、扱う際には注意が必要な話題である。

それでも一部のなろう系学会では、「HACHIMAN」、「U-1」をなろうの源流と考えている人もいる。創作の歴史においては重要な要素ではある。

この点でも、「仕事のできない雪ノ下雪乃」と評価されたことは直接的な関連性が無くとも、偶然で片付けられる点ではない。

■漫画もライトノベルも読めない者達への下位互換作品か?

昔から言われている話だが、「今の若者はマンガが難しくて読めないからラノベを読む」説。これですらもはや十年以上の前の話である。

最近ではSNSだけでなく、書かれていない行間を読む読解力の低下が指摘されている。こちらはある程度、データでもまとめられている。

そういった中で、近年はツンデレが分からない読者が増えているという。

ツンデレとは「嫌い」と発言しながら、内面では「好き」と思っているだけに行間を読まないとツンデレを理解できないのである。

さて、『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』のタイトルから分かるように、ツンデレの行間を埋めている。当然、作中でもロシア語で本音を語っているためツンという要素があってない。

ツンデレが理解できない昨今において、今の読者にわかりやすくツンデレの行間を埋めた作品だと、今になって私も分かってきた。
ルイズやハルヒなどのツンデレキャラを嗜んだ身からすれば、逆にアーリャのようなキャラクターの方が私には異質なだけに、この点は気がつけなかった。

昔から漫画がわかりにくくなったように、今の一部の人間にはライトノベルすら理解できないののではないか?
ツンデレが理解できない以上、些細な感情を読み取らないと物語が理解できない、涼宮ハルヒシリーズなど今の読者には時代だけでなく文法的にも古典になっているのだ。

物語を読み取るには知識と理解が必要である。

私も今年の大河ドラマを見たことで『源氏物語』のアプローチが出来てきた。古典とはその当時の世相、価値観、さらには物語が書かれた背景も理解していないと本当に異世界でしかない。

実際、今になってみればルイズやハルヒなどの多くのツンデレキャラをラノベから生み出してきた歴史とは何だったのかと、当時を人間からも理解しがたい部分がある。

そういう意味ではこの令和で『ゼロの使い魔』のアニメスタッフの多くで手がけられたアニメ版『Lv2からチートだった元勇者候補のまったり異世界ライフ』はツンデレが今にアップデートされていたと感じた。

しかし、このように作品考察をすることで、より作品を楽しもうとするのはやはり少数派のたしなみであろう。

さて、「アーリャさん仕事のできない雪ノ下雪乃」とはラノベを見る層ですらツンデレという行間が読めない層がいることを認識しての発言と読み取れないだろうか。

ここに関して岡田斗司夫氏はダウンタウン以降、お笑いは分かる人と分からない人で笑いの格差と語っている。その前提した上で24時間テレビのようにベタでしか感動できない人がいるとも語っている。

他者の発言に寄生するわけではないが、「マンガが難しくて読めない」という話はここに通じてくる。また、岡田斗司夫氏の考えが必ずしも正解とするわけではない。
それでもお笑いやテレビ番組がそういった作りになっているのは事実である。

それだけに漫画も読めず、ラノベにすら読めなくて、ベタな展開を求めるのはお笑いやテレビ番組から見ても何もおかしな話ではない。

そして、近年なろう系がここまで世間に出ているのに面白くないと批判されている構図とこれは重なるのである。岡田斗司夫氏が笑いの格差と語ったように、オタク文化というよりも、コンテンツを楽しむのに知識格差が明確に出てきているのである。

それだけに「仕事のできない雪ノ下雪乃」とはライトノベルを読める層ですら、ツンデレを理解できないロシデレを批判していると考えるのは極端な話でも無くなってくる。

なろう系はもはや、設定だけで作られたベタな作品である。だから、アーリャは作中、自身も頭脳明晰と語っておきながら、作中では仕事が出来ない。受け手側はドジっ子と読み取れても、作中の周りからの評価はそのように描かれていない。明確に読み手と作中でズレている。

物語の進める手法に「信用できない語り手」というものがあるが、なろう系の場合、次元が違った意味で作中の情報が「信用できない」。
しかし、これをツンデレのように行間が読めない為の配慮と考えるとどうだろう。

作中の設定通りなら、「アーリャは頭脳明晰だけに一人で何でも出来る」になるのである。

物語の手法「メアリー・スー」にしても、どんな困難な状況も優秀さだけで完結させている(それ自体が皮肉ではあるのだが)。つまり、先の例は「信用できない語り手」ではなく、物語を単純化させた「メアリー・スー」なのだ。

それだけに「メアリー・スー」は俺TUEEEの原型ともいえ、その流れから「HACHIMAN」が出てきて、なろうの源流と考えている人のである。

話の過程飛ばした結果だけを求めるキングクリムゾンでなければ、なろう系を好む読者は読み取れないのだろう。その内容が現実逃避、承認欲求を満たすモノであっても、それ以上に物語が結果だけを求めているだけに、話が成立してない。

なろう系を世間からは馬鹿にされがちだが、こう考えると漫画が読めない者達のためのライトノベルよりもさらにデチューン(性能をわざと落とす処理)した、劣化させたライトノベル、レッサーラノベと言えるのかもしれない。

ここがラノベ読者も認識のズレを起こしているのではないだろうか?

少し極論も入り交じった話になったが、本来、この内容は私だけでなく、多くで議論して詰めていく部分である。だが、この議論というのはライトノベル読者も避ける傾向があるため、それも難しいとは思う。

ただ、これが入門としてラノベ、一般小説へ巣立ちが出来れば、レッサーラノベと揶揄したところで、その存在意義は大きいと思う。

しかし、問題はこれらの作品は今だに部数が出ているだけに、依存している層で支えられている事実を示している。

■作品考察が出来ないラノベ読者と考察を重ねるチー付与読者 ~ただし、部数の差は逆転する

先ほどライトノベル読者は議論を避けると語ったが、これは作品考察でも見て取れる。最近、ネットに挙げられた感想などの反応をまとめて動画をよく見かけるが、ライトノベル作品がまとめられているのは見たことがない。

『追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフを謳歌する。 ~俺は武器だけじゃなく、あらゆるものに『強化ポイント』を付与できるし、俺の意思でいつでも効果を解除できるけど、残った人たち大丈夫?~』のコミカライズ版では各話で考察されている。

これは作品の差もあるにせよ、やはり読者層の違いと見て良いだろう。そう作品考察が出来ていない以上、知識格差というのが出てきているのだ。

何の作品か以前にライトノベルのネタバレが公式サイトに挙げられており、珍しいこともあると読んでもいないが、それを見たことがある。

ただ、このネタバレとは叙述トリックを示唆する内容だった。

本来であれば、読者間の作品考察であげて叙述トリックと読み取って欲しかったのでは無いかと思うが、公式サイトでそれを挙げる時点でライトノベル読者の読解力が低いと出版社も思っているのは明白である。

しかし、「チー付与」、今60万部突破だが、これだけ盛り上がっている割には部数は少ないと感じた。実際、売れているなろう系とは転スラでなくとも100万部超えは珍しくもない。

それだけにこの数字の差は読者層の違いと読み取れる。

「チー付与」のコミカライズ版の原作改変ぶりにそれを認めている原作者の心が広いとよく言われるが、それもそれであるだろう。しかし、本来は読者層が違う点を考慮すれば、売り方としては多方面にアプローチ出来ることは強みである。

ここを結果的に「チー付与」の原作者も認めているのでは無いかと、私は考えている。

だが、結果はコミカライズはコミカライズ、原作は原作という棲み分けになってしまっている部分もある。それでもコミカライズは原作要素も取り入れているため、原作も読み込んで作品考察をしているコミカライズ勢もいる。

■淫夢(インターネット・ミーム)=なろう系(テンプレ展開)

ロシデレは海外人気もある。しかし、これは単純化された物語が他の文化圏にもわかりやすいと言うことがあるのかもしれない。

また、ロシデレのアニメは1、2話では明確に分かる淫夢要素があった。淫夢とはあえてオリジナルの内容は語らないが、インターネット・ミームである。その言葉を使うだけで、その後の説明が不要になる。

極端な話、枕詞と続く単語で成立していたモノを、枕詞だけで会話が成立させている、見る人が見れば高度なテクニックである。これは設定だけのなろう系とは相性が良い。型でしか無いのだ。

それが『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』というテンプレ展開で語られる作品を皮肉っているようでもあった。

しかし、テンプレという型は深い素養が必要としない。それがインターネット・ミーム、遺伝子がテンプレにそう刻まれているから。共有された認識なのだ。

ただ、限られた空間の話ではあるが。

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