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現在における"DUSToid"の自己解釈

この記事を読む前に一点だけ確認しておいてもらいたいことがある。本稿はミュージシャン・平沢進の楽曲『DUSToidよ歩行は快適か?』について私が勝手に解釈し、勝手に綴ったものである。何なら備忘録だ。彼の作品は多種多様かつ流動的な解釈が可能なものだと思う。私がこれから述べることもまた、すべて自己完結的な単なる妄想である。数多ある他の考察や作者そのものも完全に無視している。故に先んじて次のような彼の言葉を引用しておく。

「あなたの脳内でそれをいくらやっても構わないけども、そのままの流儀で私に接しないでほしい、ということです」(BSPKai=Kai より)

また実際の歌詞全文については、権利関係に疎いためここには掲載しない。

「現在」

2020年4月「現在」、この世界を最も賑わせているのは何といっても新型コロナウイルスであろう。ほんの数か月前まではまさか日本中が、そして世界中がこの未知のウイルスに怯え家に閉じこもることになろうとは思いもしなかった。事態が深刻さを増してきたさなかに私の頭に浮かんだ歌こそ、この『DUSToidよ歩行は快適か?』だった。2月末のことである(https://twitter.com/tttsukkkae/status/1232838587541901312?s=20 -2020/02/27)。どうも私にはこの歌が今の世界の現状を的確に描写しているように思えてならなかった。歌詞を見てまず目につくのは「コロナ」という直球表現。ここまでのどんぴしゃ表現はなかなかに衝撃的だが、ここではあえて愉快な偶然としてスルーする。ちなみにこの曲の最初のリリースは1999年である。SARSすらまだ発生していない。

では世界のこの現状がなぜ私に"DUSToid"を想起させたのか。それは追々語るとして、具体的な解釈に入っていこうと思う。


《動作》と《手段》

私はこの歌の歌詞を大きく3つの部に分けることにした。第1部はさらに2つの節に分けることにするが、どちらも"DUSToid"の現状を述べ、「快適か?」と問いかける。

私は第1節を《動作》と捉える。物質:DUSToidの一日が動き出す。「コロナ状に」というのはもちろん本来の「太陽の光冠」のようにという意味。ここで光冠という表現を持ってきたのは、地上に舞うDUSToidを天空の光冠と対比させるためではなかろうか。「アドレナリン」は、活動を始めるDUSToidの激烈なスタートを、「波」はそのうねりを表すだろう。ちなみにアドレナリンは歌詞中で重視されている人間の神経機能を表す語の一つと考えられ、後にいくほどにアドレナリン<シナプス<ニューロンとその規模が大きくなっていく。そして最後に「歩行」を問う。歩行は動作であると同時に、目標に向かうための手段となる。

そこで第2節は《手段》と捉えた。科学の無機質な効能によって否応なく力を得たDUSToidは、改札を通り、メトロに乗り込む。「挑む」という表現にDUSToidの意思が見え隠れするようだ。「空想の地」は判断に迷うが、本来人の通るはずのない地中を、あるいは本当にそこを通る(=そんなことをする)必要があるのかという疑念を表していると捉えることにした。問いの先、「メトロ」は見えぬ目標に向けて走る。

《思慮》

メトロの吊り革に絡まりながら、DUSToidは静かに流れる第2部を《思慮》する。この世界はなんだ?この宇宙はなんだ?未だ見えぬ真理という名の王国を思慮する。だけど確かにそれはあるはずだと、束の間の昼下がりにそう鼓舞する。『夢の島思念公園』(2004)でもそうだが、平沢にとってオフィスの合間のランチタイムとは人々から何かが生まれる場なのだろうか。

そうしてDUSToidは《思慮》を続ける。はたしてそんなものは存在するのか。問う歌は誰にも聞こえない。それでも思慮は続く。決して見えるはずのない、宇宙のUtilityを。

第2部は英字の使い方も特徴的だ。各フレーズに一つずつ英字の単語が埋め込まれている。大文字小文字の違いも気になるが、「Utility」「KINGDOM」と並列して「DUST」が示されているのが興味深い。英字で記されている以上は共通項であるのだとすると、DUSTはすでに「真理」に限りなく近い存在になっているということになる。だがDUSToidではなくDUSTであることに留意したい。DUSTは真理であっても、その”もどき”であるDUSToidは未だ悟りを開く途上にあるということだ。そもそもDUSToidが何なのかという問題については後述する。

はい。

第2部と第3部の間には平沢が「はい。」という部分がある。歌詞には含まれてはいないが、ライブではこの曲の最も盛り上がる場所である。私にとっても、「はい。」がこの曲で一番魅力的な部分なのだが、同時に一番解釈の難しい箇所でもある。この「はい。」がいったい誰による発言なのか、私は二つの説を挙げたい。

一つはDUSToidによるものであるという考え方。第2部の《思慮》の果てにDUSToidが答えにたどり着いた、あるいは真にたどり着いてはいなくとも心の整理はできた、という意味での了解・気づきの「はい。」である。何かを理解したときの「あ~はいはいはい」というイメージだ。

もう一つは、真理つまりUtility・KINGDOMによるものという考え方。《思慮》を深めソレを追及するDUSToidに対し、不意に姿を見せた真理からの一言、すなわち返事である。真理がヌッと現れる様はなんともあっけなく、滑稽にも思えるが、案外答えにたどり着くとはそういうものなのかもしれない。

「はい。」を前者でとればDUSToidの悟りへの出会いは能動的、後者でとれば受動的ということになる。さあ、悟りというものはいったいどのようにして訪れるのだろうか。それは悟ってみなければわからない。

この「はい。」が魅力的たる所以は、音楽の中でこそその真価を発揮するという点にある。平沢は自身の曲作りについてこう述べている。

「(普通の文章を読むような)文脈で表現できるものなら音楽にしません」(BSPKai=Kaiより)

「はい。」は歌詞を読んだだけでは見つからない。だが音楽を聴けば、《思慮》を深め烈しく思考が明暗する中で、一瞬音の止まった静寂に、スッと差し込まれることによって、非常に大きな意味を持つことになるのだ。これこそが文章を大きく超えた音楽としての表現であり、私が病的なまでに惹かれる理由である。

《覚醒》

さて悟りが能動的であったのか受動的であったのか、あるいは未だ悟りには至っていないのか。いずれにしてもDUSToidは《覚醒》した。再びの「物質の朝」は以前のような単なる一日の始まりではなく、新たな景色との出会いという覚醒である。内なる《思慮》の果てに繋がった悟りの歌が身体を駆け巡る。小さなアドレナリンから始まったうねりはついにニューロンに達したのだ。悟りに触れたという体験は、新たなる世界へのヒントを忍ばせる。そうしてDUSToidがようやくたどり着いたいつもの仕事場。最後の問いは、「オフィスは今快適か?」と。

《覚醒》を遂げたDUSToidを描く第3部だが、最後に再び快適さを問うている点は気になるところだ。前二つの問いはDUSToidの鬱屈とした現状を問うものであったが、最後の問いは性質が異なる。覚醒を遂げたDUSToidにとって、もはやこの問いは問いではない(=答えるまでもない)ものであり、確認と言った方がいいだろう。DUSToidの疑念はここに信念となったのである。

「現在」に思う、DUSToidとは

以上が私の思い描いた筋書きである。ではそもそもDUSToidとは何なのか。もちろんDUSToidというのは造語である。語義から見れば、「Dust=ちり、くず」+「oid=~のようなもの」ということになる。つまりは世界中にホコリのように舞う何か、ということだ。ここまでの解釈を踏まえれば、DUSToid=人間というのが普通だろう。地球に夥しく蔓延る70億の人間、あるいはその集団である。

さあ、私はこれまでそう考えてきた。だが「現在」の中で私が新たに思い至ったDUSToidの正体がある。すなわち、DUSToidは人間ではなく、人間の周囲にそれこそホコリのように舞う何か、ということだ。具体的にそれが何なのかというのは特定しない、というかできない。人間の周囲に舞うあまりにも多様な物質たち。動物、植物、電気、音、神経物質、情報、あるいは――ウイルス。それらが皆、人間の営みをつぶさに観察し、思考しているとしたら?群衆の波に揉まれながら、ヒトからヒトへと渡り歩き、時にはヒトを利用し、時にはヒトに利用され、その行動を見て、それらは何を思うだろうか。自分たち自身、そして自分たちと同じように世界に舞う、DUSToidよ歩行は快適か?

第3部で「DUST」が真理に列せられていると述べた。その理由はここにあるのではなかろうか。世界に舞うDUSToid。それは様々な形を取り、それぞれに思慮する。あらゆるDUSToidの、その大本であるDUSTは、それはすでに真理と同義であるといってもいい。

平沢はこの"DUSToid"に「類塵猿」という訳をつけたという。これもまた不思議な言葉で、確かにそのまま意味を取れば人間のようなものとも思えるが、類人猿は決して人間ではないように、「類塵猿」もまた直接人間そのものを指すとは思えない。かといって全く無機質な塵そのものであるというわけでもない。彼の生み出したあやふやなこの「何か」に想いを馳せながらこの歌を聴くと、これがまたなんともワクワクしてくるのだ。

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