【長編小説】父の手紙と夏休み 8

窓から差し込む日の光の角度が変わり、影が形を変えていた。奈々子は無意識のうちにコーヒー牛乳を啜っていた。

知らないうちに涙がこぼれていた。感動ではなかった。ショックだった。心が落ち着かず、今、目で追った文字たちの意味を上手く受け入れることができなかった。ただ心がどうしようもなく震えて、胸が痛くなった。

これは父の作った創作なんだ、そう自分に言い聞かせた。それでも動揺は消えなかった。母はこのことを知っているのだろうか、知らなかったとしたらこれを読んでどう思うのだろうか。

奈々子は知ってはいけない秘密を抱え込んでしまったような重い責任を感じた。そして自分が父の共犯者のような気がした。

玄関のドアが開く音がする。母が帰ってきた、奈々子は急いでフォルダを閉じ、PCをシャットダウンした。そしてカーテンを閉め、父の部屋を後にした。自分の部屋へと戻るとき母とすれ違ったがその顔を見ることができなかった。母は奈々子に「ほら、はやく勉強しなさい」と言った。

その晩はうまく眠ることができなかった。ベッドの中で何度も寝返りをうち、小さなため息を繰り返した。頭が眠りを求めて朦朧とする度に、父の手紙の言葉が浮かび上がり、そして意識を覚醒へと連れ戻していった。

〈小林杏子〉と〈宮崎恭子〉。

その顔も知らない二人の女性の名前が奈々子の中でゆっくりと大きくなっていった。心の中に広がっていく二つの名前は奈々子の存在を脅かしていた。いつもは観葉植物のように静かな父がなにかとてつもなく恐ろしいもののように思えた。

冴えていく頭と熱を帯びていく身体を持て余し、奈々子はベッドから起き上がった。机の上に置かれている目覚まし時計に目をやると針は4時45分を指していた。

カーテンを開け、窓から外を眺める。空の闇が薄くなりつつあり、微かに太陽のにおいがした。

「今日も暑くなりそうだな」

奈々子がそう一人呟くと、サルスベリの木にとまっていた鳥が「チーチチッ、チー」と答えた。

どうせならと奈々子は机に向かって英語の問題集を開いた。外からの光はまだ弱く、問題集に書かれた英文がうまく読めなかった。机の上のデスクスタンドを点ける。白い光に照らされた英文は意味をなさず、その音だけが頭の中で繰りかえされた。

It seems increasingly likely that I really will undertake the expedition that has been preoccupying my imagination now for some days. 

構文もうまく理解できず、奈々子はそれを口に出して言ってみた。

「いっと、しーむす、いんくりーじんぐりい、らいくりい、ざっと、あい、りありい、うぃる、あんだーていく、ざ、えくすぺでぃしょん、ざっと、はず、びーん、ぷれおきゅぱいいんぐ、まい、いまじねーしょん、なう、ふぉお、さむ、でいず」

口にしたところでそれがなにを言わんとしているのかはやはりわからないままだった。辞書を引く気にもならず、しばらくその英文をながめる。そこに書かれている文字は奈々子の頭の中で次第に父の顔に変わり、そして父の顔は二人の女性の名前へと思考を導いていった。

「Kyoko」

奈々子は昨日の昼間に読んだ父の手紙の内容を思い出そうとした。父の過去、父の恋愛、父の病気、そして『ノルウェイの森』。

知りたかった。父がどんな気持ちであれを書いたのか、二人の〈キョウコ〉は実在するのか、実在するとしてその二人は父のことをどう思っていたのか、そして父の気持ちはまだその二人に向いているのか、そのことが知りたかった。父が母のことをどう思っているのか、自分のことをどう思っているのか。それは受験勉強よりももっと大事なことだった。自分の存在そのものに関わることだった。

奈々子は自分というものを考えるといつももやもやした気持ちになった。それは濃い霧に覆われた薄ぼんやりとした影でしかなかった。そんな曖昧で頼りないものが自分だと考えると悲しくなった。だからそれについては考えないことにした。その影が目の前にちらついても、友達とおしゃべりをしたり、ネットで買い物をしたり、テレビを見たりすればいつのまにかそれはどこかに消えてしまうのだ。消えてしまえばそんなことについて考える必要はない。それで問題がないはずだった。

しかし、今、その影がまとわりついて離れなくなった。影は父の顔をしたり、二人の〈キョウコ〉になったり、母になったりしながらその存在をどんどん大きくしていった。奈々子はそれをよく見ようした。どんな色をし、どんな形をし、どんな動きをするのか。しかし、それは影であり続け、定まることはなかった。その定まらない影を見続けていると心が不安な気持ちで満たされていった。奈々子は問題集を閉じ、椅子から立ち上がった。そしてドアを開け、父の部屋へと向かった。

家の中は静かで暗かった。母はまだ寝ているようだった。奈々子は母を起こさないよう、忍び足で父の部屋へ向かった。父の部屋に入るとドアをしっかりと閉め、明かりをつける。だれもいないその部屋はひっそりとしてなんとなく冷たく感じた。

父のにおいのする空気を大きく吸い込み、机に置いてあるPCの電源を入れた。起動の音が奈々子の耳に大袈裟に響く。母が起きやしないか動きを止め様子を窺うが、物音はなにもしなかった。椅子に座り、昨日見たフォルダを開く。そして父の書いた手紙を読む。二度目なのでもう心は乱されたりしない。そこに書かれている事柄だけをしっかりと頭に叩き込む。そして父の気持ちを想像する。自分の影をそこに映しだす。

一度読み終え、二度目を読みはじめたとき、外から新聞配達のバイクの音が聞こえた。窓に目を向けるとカーテン越しにも日の光が輝きはじめたのがわかる。奈々子はPCを閉じ、父の本棚に向かった。上から順に背表紙に書かれたタイトルを調べていく。そして二つ目の本棚のちょうど真ん中にそれを見つけた。

『ノルウェイの森』

奈々子はその上下巻にわかれた二冊の文庫本を手に取った。上巻は真っ赤な表紙で、下巻は深い緑色をしていた。クリスマスみたい、奈々子はそう思いながらその二冊を目の前に掲げて眺めた。なぜだか心が騒いだ。奈々子はもう一度父のにおいを深く吸い込むと、電気を消し、二冊の文庫本を持って部屋を後にした。

椅子に座り、机の上の問題集や資料集を片づける。最後に小説を読んだのはいつだっただろう、記憶の箱をひっくり返してその時の様子を思い浮かべる。

確か中学三年生の夏だったはず、夏休みの宿題でヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んで読書感想文を書いた、でも話の筋はもう忘れてしまった、ただひどく時間がかかったのは覚えている、読み終わったあともうこれ以上読まなくていいんだと清々した、それから小説は読んでいない。

奈々子はその時の感情を呼び起こしながら赤と緑の二冊の文庫本に視線を向けた。あの時みたいにしんどい思いをするのは嫌だな、そういえば小説を読むのはいつも夏だな。恐る恐る捲ったページの一行目にはこう書かれていた。

『僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。』

奈々子は父の年齢を頭に思い浮かべた。三十七歳の頃の父はなにをしていたのだろう、そうぼんやりと考えながら先を読み進める。

『ノルウェイの森』はヘルマン・ヘッセの小説よりだいぶ読みやすかった。それでもその文体に少し気恥ずかしさを感じた。

「やれやれって!」

しばらくはその気取ったような文体や会話と「僕」の醒めた態度に突っ込みを入れながら読んでいたが、それに慣れてくると次第に物語の中へ引き込まれていった。

1968年の頃の大学生の生活は、それが当時の学生の生活を本当に描写しているかは疑問だったが、今の奈々子の生活とはだいぶ違うもののように思えた。政治の問題など考えたこともなく、スコット・フィッツジェラルドなんて知らないし、『突撃隊』みたいな人間に会ったこともない。

奈々子は自分が損をしているような気がした。特に今の生活に不満があるわけではない。友達と遊べば楽しいし、携帯やインターネットは便利だし、平和で快適で豊かな生活だ。

でもそこには熱がなかった。『ノルウェイの森』の世界には熱の存在が確かに感じられた。『僕』はその熱を醒めた目で見ている。でも醒めた目で見ることができるのはそこに熱があるからで、熱なんてない今の奈々子の生活や奈々子の生きている時代は醒めて見る対象すらないのだ。熱がなければ醒ますことはできない。

奈々子は『ノルウェイの森』の世界にある確かな手触りを感じようとした。そしてその世界に自分も溶け込もうとした。熱を経験するために、そして熱を醒ます目を経験するために。

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