【新連載】真夜中の森を歩く 6-2
就業時間を過ぎた建設現場は人気もなく荒涼としていた。冷たい風が吹き、資材を覆っているビニールシートや緑十字の旗を揺らしていた。
ミツロウは今日使ったケーブル類の残りを定められた置き場へと片づけ、ゴミを捨てた。高橋はその後ろでふらふらと歩きながらヘルメットを脱いだ。
「あー、煙草吸いてえな」
「もうすぐ終わるから」
ミツロウはただ後をついてくるだけでなにもしない高橋に苛立ったが文句は言わなかった。高橋は小さな咳払いをしてから唾を吐いた。黄色い痰がアスファルトにこびりつく。
「それにしてもさみーな」
高橋はドカジャンの襟を立て、その中に顔をうずめた。日は既に落ちており現場には投光器が照らされていた。その白い光がゆらゆらと漂う現場の埃を浮かび上がらせた。ミツロウは短くなったケーブルと分電盤に接続した際にでたケーブルの皮をゴミ捨て場に捨て、手袋をとった。
「じゃあ小屋いくか」
「おー、行くべ行くべ」
おどけたような態度で高橋が走り出す。その後ろ姿を眺めながらミツロウは高橋を羨ましく思った。どこまでも自分中心で我慢などまるでしない。それはナナちゃんとはまた違った自由を体現しているようだった。高橋の体つき、態度、それはどこか野性を感じさせた。思慮も理性もなく、ただ本能だけが行動原理である野性。ナナちゃんの気分と戯れる自由ではなく身体の欲望のみに支配された荒々しい自由。それが高橋の体現している自由だった。
「やべー、あったけえ。まじで生き返るわ」
高橋は仮設小屋に設置されている石油ストーブの前で身体を震わせた。
「あったまったらションベンしたくなったな」
高橋は煙草を口に咥え、ライターで火を点けた。
「煙草吸う前にトイレ行けば」
「あー、煙草吸ったらションベン止まったわ」
ミツロウは腰道具を降ろし、ストーブの近くの椅子に座った。安全靴を脱ぎ、かじかんだつま先をストーブにかざす。
「おい、やめろよ。においがこっちくるだろ」
高橋は大げさに顔をしかめ「くせえくせえ」と顔の前で手を振った。ミツロウは苦笑いを浮かべて足を降ろした。
小屋にはミツロウたちの他にも数名人がいて、それぞれがなにか書類を書いたり世間話をしていた。小屋の奥には親会社の社員と現場監督が集まってひそひそと話をしていた。監督の右手には携帯電話が握られていた。
「あの監督よ、こっちが挨拶しても無視すんだぜ。今度ぶん殴ってやろうか」
「おい、聞こえるぞ」
「知るかよ、めんどくせえ」
高橋はミツロウの隣に腰を下ろした。汗のにおいがミツロウの鼻をついた。煙草を灰皿に突っ込み、小屋の中をキョロキョロ見回す。
「今日はあいつら来てねえのか」
「あいつら?」
「ほら、鉄筋屋だよ、外人ばっかの」
「ああ、今日は休みじゃん。特に仕事もないんだろ」
「ちっ」
高橋はつまらなそうに顔をストーブの前に戻した。その顔がストーブの熱と光で赤くなるのをミツロウはぼんやりと眺めていた。彫の深い顔が赤く染まると高橋の荒々しさが一層際立つように思えた。ミツロウは自分の顔を手で摩った。顔は驚くほど冷たかった。
「あの鉄筋屋にさ、韓国人いるだろ」
「ああ、いたな」
「気に食わねえ顔してるよな」
「そうか?」
ミツロウは何気なくそう答えると高橋は真っ直ぐにミツロウの顔を見つめ、そして笑った。そこにはどこかミツロウを見下している雰囲気があった。ミツロウはその感覚に苛立った。しかし何も言わず、高橋から目を逸らした。
「お前、知ってるか?」
「なにが?」
「韓国人はな、なんでも盗むんだよ。あいつら盗人野郎だからな」
「なんか盗まれたのか、お前」
「はっ、お前無知だな」
高橋は煙草に火を点け、深く吸い込み、吐きだした。高橋の口から広がる煙がミツロウの目を刺激した。ミツロウは目を指でこすった。指が微かに濡れた。
「韓国の野郎はな、オレたち日本人が憎くてしょうがないらしいんだよ。その癖、オレたちが羨ましくてな、それでなんでも盗むんだ。要するにあれだな、嫉妬?自分ではなんにもできないから人のものパクって、それでこれはオレのものですって言ってな。ほら、よく言うだろ、盗人猛々しいって。あれはあいつらのことを言うときに使う言葉だな。あいつらにはレキシがないんだよ、わかるか、レキシ。あいつらはただのパクリ野郎だ」
ミツロウは高橋が何を言っているのかうまく理解できなかった。ただ、高橋が韓国人に強い憎悪を持っていることだけは理解できた。高橋と韓国人の間になにかあったのだろう、ミツロウはぼんやりとそう考えた。
「パクるだけならまだいいけどな、いやよくねえな、まあでもそれより、パクっておいてこれが自分のものだって言うのがむかつくよな。どういう頭してたらそんなこと考えられんだろうな。クズだな、人として終わってるよな。ああ、考えるだけでむかついてきたわ。あいつらいつかわからしてやんねえと」
高橋は右手で拳をつくり左手をバシッと叩いた。拳を握った右腕の筋肉が固く引き締まるのがわかった。ミツロウはその右腕に惹かれる自分をすぐに打ち消し、視線を他へ向けた。現場監督は書類に向かって必死にペンを走らせていた。隣で親会社の社員が携帯電話で誰かと話していた。ひどく恐縮している様子で頭を何度もペコペコと下げていた。
「おい、お前、これから韓国野郎のことは信用するなよ。あいつらは平気で裏切るし、それを悪いとも思ってないんだ」
「お前、韓国人に恨みでもあるのか?」
「恨みというか、気持ちが許さないんだよ。オレの正義の心がな」
高橋の言葉にミツロウは思わず笑ってしまった。その笑い声は静まり返った小屋の中に響いた。現場監督が書類から顔をあげこちらを見た。ミツロウは慌てて笑いを抑えた。
「なんだよ、笑うなよ。オレだってな、なにが正義でなにが悪かはわかるんだぜ」
「なにが正義でなにが悪なんだよ?」
「そんなの心でわかるだろ。気持ちがざわつくのは悪なんだよ。オレの気持ちがな。感覚的にこいつは許せねえって感じたらそいつは絶対に悪なんだ。わかるだろ?身体が反応するんだよ」
ミツロウは曖昧に頷いた。高橋の言っていることがなんとなくわかるような気がした。なにかに対して許せないという感情はミツロウにも確かにあった。しかし、その許せないという感情をミツロウは素直に言葉にできなかった。そこになんらかの理由を求めて疲弊してしまうのだった。なぜ、なぜ。高橋は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、すぐにまた新しい煙草に火を点けた。
「オレだってな、別に全うな人間じゃないぜ、それくらいわかってる。でもな、いや、だからな、オレが全うじゃないからこそ本当の悪っていうのがわかるんだよ。直感だよ、直感。ピーンとくるんだ、こいつはヤバイなって。オレはそいつを許さねえ」
続けざまに吸った煙草に気分が悪くなったのか、高橋は激しくせき込み、唾液を床に吐いた。首筋に血管が浮かんだ。埃で黒ずんだ肌が引き伸ばされ張りつめていた。高橋は煙草を消すと「暑いな」と言ってドカジャンを脱いだ。穴の開いた耳を指でこすると、その指を鼻に持っていってにおいを嗅いだ。そしてもう一度床に唾を吐いた。
「お前もそのうちわかるぜ、オレが教育してやるよ」
ミツロウはその言葉に苛立ちと微かな興奮を覚えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?