【長編小説】父を燃やす 5-10

大型案件を成功に導いたことで水上の評価は一段と増した。上層部から昇進の話が持ち出され、部下からは羨望のまなざしが注がれた。

水上は、そんなことは大したことではないんだ、というようにいつもの柔和な仮面を崩さなかった。与えられた仕事をただ忠実にこなしただけなんだと。

今までの態度を崩さぬ水上だったが、唯一、真治に対する言動に変化をみせはじめた。

人がいる前では今まで通りの態度で真治に接していたが、真治と二人きりになるときは柔和な表情が崩れ、冷たい能面のような顔が現れた。挨拶を無視し、相談にものらなかった。真治を客先へ同行させることもなくなり、どんな小さな案件でも真治には回さなかった。

真治に与えられる仕事は煩雑な事務処理と膨大な量の資料作成だった。真治は文句も言わずにそれを淡々とこなした。言われた通りの資料を作成し、それを水上に渡すと、水上はなにも言わずに受け取り、そして夜遅く、修正箇所を書き加えて真治に戻す。

もう「よくできている」と真治を褒めることはなく、小さなメモで「今日中にこれを仕上げるように」と指示をだすだけだった。

真治は指示された修正箇所を直し、水上に確認する。確認の度に水上は新たな修正箇所を真治に示す。真治は言われるままに修正を繰り返し、作業は深夜に及ぶ。水上はいつの間にか帰っている。真治は修正の確認ができぬまま、資料作成を翌日に持ち越す。

翌朝、水上に再度確認を申し出ると、「昨日までに完成さるよう指示したはずだが」と叱責を受ける。真治はただ謝り、再び出された修正を行うために昨日と変わらぬ作業を続ける。そして何日かして承認を得た資料は真治が最初に作ったものとなんら変わりのないものだった。

この不毛な作業を真治は延々と繰り返した。なんら実りのある経験は積み重ねられず、帰宅時間だけが伸びていった。

水上の真治への寵愛が薄れていることを敏感に感じ取った部署のメンバーたちは真治から遠ざかっていった。だれも真治に手を差し伸べるものはなく、堕ちていくかつての有望株を憐みの目で眺めていた。それでも真治は与えられた仕事を懸命にこなした。いつの日かこの理不尽な環境は改善さるはずだという希望を捨てなかった。

真治は不毛な作業を一年間つづけた。しかし「いつの日か」はやってこなかった。真治に与えられた環境は変わる兆候すら見せなかった。

水上は昇進し、水上に従うものは昇給していった。彼らは水上によって新しい任務を与えられ、より大きな案件を扱うようになっていった。誰も真治に気をかけることはなく、水上の指示を忠実に守りながら、自分の能力を存分に発揮しているようだった。

周囲の人間の変わっていく環境と自分の変わらぬ環境、それが目の前に示されたとき、真治の中でなにかが折れた。

「ここにいても自分はなにものにもなれないだろう」

一度芽生えたその考えは日に日に大きくなっていき、真治の頭を支配した。与えられた仕事をこなす気にはなれなかった。仕事をこなさないことでかつての同僚から叱責されてもなんとも思わなかった。怒りの仮面の下に優越感をにじませる彼らの顔を見ながら真治は退職を決意した。

退職届を提出した翌日、真治のもとに水上から自分の部屋にくるようにと連絡があった。その指示に従い真治が水上の部屋へ行くと、水上はいつもの柔和な表情を浮かべながら椅子に座るよう促した。

「やめるそうだな?」

表情と同様の優し気な声で水上は真治に言葉を向けた。真治は微かな怒りが沸きあがってくるのを感じながらただ「はい」とだけ返事をした。

「惜しいことだ。きみが優秀なことはわかっていた。もう少し我慢すればすぐにでも出世していっただろう。うん、惜しいことだよ。会社にとっても、きみにとっても」

水上は自分の前にあるテーブルを指でトントンと叩いた。真治が黙っていると水上は芝居くさい笑みを浮かべた。

「どうしてやめようと思った?」

真治の怒りは水上のその問いにさらに燃え上がった。ただそれを表にだすことはせず淡々と答えた。

「このままの状況にいても自分が成長できるとは思えなかったので」

水上は真治の答えを娯楽映画でも見るように楽しそうに聞いていた。

「そうか、きみは今の仕事に不満があるんだね?自分はもっと大きな仕事をしたいと」

「不毛な作業を強制されているように思います」

「不毛な作業ね。それが自分のためになるんだとは思えないか?」

「思えません」

「きっと、そういうところがきみの欠点なのだろう。上はそれをよく見ている。自信過剰だ。もっと謙虚になった方がいい」

「水上さんのように?」

「それはなにかの皮肉か?」

「それはあなたが一番よくわかっているのでは?」

水上は真治の言葉に表情を崩さなかった。ただ小さな笑い声を漏らしただけだった。

真治は自分のなかにある怒りがまるで見当違いであることに気が付いた。目の前の男にこの怒りを向けたところでなんにもならないような気がした。

水上は自分を脅かさないものに対しては常に寛大なのだ。真治が何を言おうと今さら自分の脅威になる可能性はない、その考えが水上に余裕を与え、どんな言葉も快く受け入れていく。能力や人間性の問題ではない、立場の問題なのだ、そう納得すると怒りが徐々に小さくなっていった。

「私が言えば、きみにももっと大きな仕事を与えられると思うのだが、きみはどう思う?」

「いえ、この一年間で私にこの会社で大きな仕事をしていくだけの能力がないことに気が付きました」

「能力?」

「はい、水上さんのような能力は私にはありません」

「それはまた皮肉か?」

「いえ、事実です」

水上はまたテーブルをトントンと叩いた。

「では、きみは会社を辞めるのか?」

「はい、自分の能力に見合った仕事をします」

「どこでも一緒だと思うがね」

「それを確かめてみます」

「ふん、まあいい。一応私はきみを止めたよ。きみの退職の意思が強いことを上には言っておくよ。それでいいかな?」

「はい、それで結構です」

真治はそう言うと席を立ち、水上の部屋を後にした。ドアを閉めるとき水上の顔に視線を向けたが、水上は真治のことなどすでに頭にないようだった。

真治は小さく「失礼しました」と声をだし、ドアをゆっくりと閉めた。そして自分の中にまだ野心が残っていることを感じとった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?