【新連載】真夜中の森を歩く 3-2

秋の風が頬を撫でた。ミツロウは高い空を見上げた。

「天高く馬肥ゆる秋」

母の隣に座っていた前田さんはそう言ってミツロウにシュークリームを渡した。ミツロウはそれを受け取ると母の顔を覗いた。

「すいません、いつも」

母の言葉に従うようにミツロウは前田さんへ小さく会釈した。前田さんは笑って頷いた。いつもの前田さんの顔だった。ミツロウはシュークリームを口にした。クリームと唾液が混ざり合い、口の中は粘着性の液体で満たされた。甘く滑らかなそれが喉を通り過ぎると同時に幸福感が沸いた。母が手に持っていたペットボトルのお茶をミツロウに手渡す。ミツロウはそれを半分ほど飲み干した。鼻に緑茶の爽やかなにおいが香った。

「また少しお痩せになったんじゃないですか?」

前田さんは母に尋ねた。母はぼんやりと庭を眺めていた。そこには丁寧に手入れされた花壇があった。コスモスが一列に並び、ピンクの花が風に揺れていた。後ろにはサルビアが重なり合いながら咲き誇り、マリーゴールドが静かに佇んでいた。土は黒々としていかにも肥えているように見えた。赤茶色のレンガがそれらを囲い、日の光に照らされたその場所は聖域を思わせた。アブや蝶が花から花へと飛び移り、小さな羽音を立てていた。

「いえ、そんなには」

母はぽつりと言った。

「あの花壇もここに来てくれるボランティアの方が世話をしてくれましてね。いつも季節の花が綺麗に咲いています。花はとても素直なので愛情を注いだ分だけ綺麗になるそうです。花壇の世話をしてくださる女性が言っていましたよ。植物でも愛を感じることができるんだなと感心したものです。人間ならなおさらですね。愛は、やはり、尊いです。最近になってますます感じます。もうどうしょうもないってときはあります。そんなときは愛に身を任せるのが一番だと思います。感じる心を育てること、それだけではないでしょうか」

「はい」

ミツロウは黙って二人の話を聞いていた。なんとなく自分のことが言われているような気がした。

「シュークリームはどうだい?」

前田さんはミツロウに眼差しを向けた。ミツロウはその言葉がなんとなく疎ましく感じられ黙っていた。はっきりとはしないが前田さんの声が自分の心に働きかけてくる意図を持っているように思えた。それは抑圧的な言葉だった。母が前田さんに自分のことを相談している、そう直感させる響きがそこにはあった。前田さんを介して母は自分を更生させようとしている。

「僕は悪くない」

ミツロウは吐き捨てるように言った。前田さんは少し驚いたような顔をしたがすぐにいつもの笑顔に戻り、ミツロウに言葉を向けた。

「なにが悪くないんだい?シュークリームは私がきみにあげた、だからきみのものだよ。だれも悪いなんて言ってない」

前田さんの「きみ」という言葉が益々ミツロウの反抗心を煽った。

「前田さんは僕が学校で問題ばかり起こしていることで僕にお説教をしたいんでしょ?お母さんにそうしてと頼まれているんでしょ?僕の一体どこが悪いんだ。僕はやられたことをやりかえしてるだけだ」

ミツロウは自分の声が甲高くなっているのを感じた。言葉を発すれば発するほど、胸の中にあった怒りが大きくなっていくのがわかった。ミツロウは立ち上がって半分残っていたシュークリームを花壇に向かって投げつけた。アブがシュークリームを避けるように大きく舞い上がった。

「ミツロウ!」

母が手を引っ張る。ミツロウはそれを払いのけた。

「きみの言いたいことはわかるよ。きみに黙ってお母さんからきみの話を聞いたことは悪いことだったね。謝ります。きみにはきみの言い分があるんだよね。大丈夫、お母さんはそれをしっかりとわかっています。きみの置かれている状況がとても理不尽なこと、きみがそれにも負けず毎日学校に行っていること、お母さんはきみを誇りに思っているんだよ。ただきみが他の生徒さんにとる行動をお母さんは心配しているんだよ。きみはなんで人を殴るのかな?」

前田さんはいつの間にかミツロウの前に立っていた。いつもと同じ黒いスーツに水色のネクタイをしていた。背後から刺す日の光が前田さんの影をミツロウの身体に重ね合わせていた。ミツロウは目を細めて前田さんの顔を見上げた。影のせいでその表情がよく見えなかった。

「なんでって、それしか思いつかないから。気が付いたら殴ってるんだよ、なんでなんて思ったりしない。あいつらが僕になにかをして、それが僕には耐えられないから、あいつらを殴るんだ。ただそれだけだよ」

「彼らと話をしてみようとは思わないのかい?」

「あいつらがなにを考えているかさっぱりわからないんだ。話したってあいつらはニヤニヤ笑ってるだけだよ。気持ち悪いやつらだよ」

「じゃあ、話したことはあるんだね?」

「ううん、あいつらとなにを話していいかわからないから話してない」

「話してみたらいいんじゃないかい。きみが彼らのしたことでどう思っているか、どう傷ついているか。きみも思うことはあるんだろ?」

「むかつく」

「それだけかい?きみは国語辞典が好きだってお母さんが言ってたよ」

「うん」

「その中にきみの感じてることを言い表す言葉は載ってなかったかい?自分の感情に意味があって、それを言葉にして相手に伝えるという訓練をきみはしてみてもいいんじゃないのかな?きみはどう思う?」

「言葉。言葉は嫌いだよ。言葉は僕に命令するんだ。こうしろああしろって。それが僕が眠るまでずっと続くんだ」

「じゃあ、なんで国語辞典を読むんだい」

「言葉と意味が別々に書いてあるから。嫌だったら意味のところを読まなければいい。世の中には僕の知らない言葉がたくさんあって、ただその漢字と読み方だけ読んでれば僕は自由になれるんだ」

「新約聖書のヨハネによる福音書の冒頭はこうやってはじまります。『はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。』言葉の意味を理解することは神を理解するなんだね。きみが言葉のうちに命令を感じとるとしたら、それは神の命令なのかもしれないね。きみは神に背こうとしてる。それがきみの自由だからね。でもきみが神の言葉を嫌い、自由を求めて暴力を振るうとき、きみは暗闇の中で生きていることになる。きみはこのまま暗闇の中で生きていく気かい?きみが言葉を理解し、神を理解し、自分を理解したとき、きっと光が見えてくるはずだよ。それがきみの成長だ。お母さんもそれを望んでおられるんだよ」

母が泣いていた。ミツロウは成長という言葉の意味を上手く把握できなかった。自分が成長していくことが母の願いであることはわかったが、一体成長とはなんなのだと自分に問うた。

言葉を理解すること、「成長」という言葉を理解すること、国語辞典がほしかった。「成長」という言葉にはどういう意味があり、それは自分になにを強制しようとしているのか。前田さんの説教と母の涙が強制する「成長」。ミツロウは「成長」を疎ましく感じた。

前田さんは母と話をしていた。母はなんども頷き、涙を指先で拭っていた。母の顔は青白く、頬には影が差しているようにみえた。瞼に青く細長い血管が浮いていた。

まるで病人みたいだ、ミツロウは思った。それが自分のせいなのか父のせいなのかはわからなかったが、心に重たいものがのしかかってくるのを感じた。以前に比べて肉の薄くなった尻と足、ミツロウはその姿を眺めることが耐えられなくなり母から目を背けた。

花壇に転がっていたシュークリームに蟻が集まっていた。黒い塊がモゾモゾと蠢きながら形を変えていく。アブはまた花壇に戻ってきており、同じく花の周りを飛び回っている蝶と幾度も交差していた。上空から飛行機の音がした。ミツロウは空を見上げた。青い空に飛行機が白い筋を作っていた。その筋は時間とともに揺らぎ、空の青に浸透していった。太陽だけが青に侵されずその存在を四方にまき散らしていた。目が痛かった。ミツロウは目を細めて太陽を見つめた。この光は自分の目には眩しすぎる、そう思った。

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