【新連載】真夜中の森を歩く 7-2
夏の夜のにおいがした。アスファルトが日中にため込んだ熱気を発している。ミツロウは額から流れてくる汗を手で拭った。汗はヌルヌルとして熱かった。「暑いな」ミツロウは溜め息とともに独り呟く。コンビニの車止めに腰をかけ、見るともなく辺りを見渡した。
路上には薄着の男女が楽しげにたむろしていた。そのうちの一人の男が火のついたロケット花火を手に持ち、走りはじめた。集団は瞬時にばらけた。男は逃げる一人の女に向かってロケット花火を投げた。花火は女の右側に大きく逸れ、乾いた音を立てて空中で爆発した。女は「危ないじゃん」と甲高い声をあげた。男が大声で笑い、集団はまた円を作って一つになった。火薬のにおいが空気に混じっていた。
ミツロウはその光景を見ながら一人で笑った。平和ボケした日本人の典型だと思った。無知で無能でまるで危機感のない、ただのクズ。それは彼らの責任ではない、偏向しているマスコミとバカサヨクのせいだと一人納得した。そして嫌韓的な想像にふけった。
「ミツロウくん?」
聞き覚えのある声にミツロウは顔をあげた。かつて思いを寄せた女性の顔が視界に入ると思わず顔をしかめた。ナナちゃんはそんなことには無頓着に無邪気な笑顔をミツロウに向けた。
「あーやっぱりミツロウくんだ、久しぶりじゃん、元気してた?」
「まあ、それなりに」
ミツロウは鋭い声でそう答えるとナナちゃんから視線を外した。
「だって、いきなり連絡とれなくなるし、メールしてもシカトするし、前田さんも心配してたよ。なにかあったんじゃないかって」
ミツロウはふと突然いなくなったユキの元旦那のことを思った。彼は今どこでなにをしているのだろう、なぜかその男の顔が見たくなった。
「ちょっと、聞いてる?」
「うん、なんだか仕事が忙しくて、体調もよくなかったから」
「ふーん、で、大丈夫なの?」
「ちょっと疲れてただけだよ」
「ならいいや」
ナナちゃんはミツロウの視界に入るように膝を曲げてかがみ込んだ。ミツロウの目にナナちゃんの姿が戻ってくる。ナナちゃんは濃い紺色のジーンズに白いブラウスをを着ていた。髪の色が幾分暗くなっていた。
「制服、やめたんだ?」
「だって、もう子供じゃないし」
ナナちゃんはそう言うと左手を頬に当てて支えにした。黄色いスカートもやめたの?ミツロウは口まで出かかったその言葉を飲みこんだ。ぼんやりと前田さんの顔が浮かぶ。
「ミツロウくんはどうなの?」
「なにが?」
「制服」
「もう着てないよ、子供じゃないし」
「真似しないでよ」
「オレの方がもっとずっと前からやめてるよ」
「ふーん、足しびれちゃった」
ナナちゃんは「よいしょ」と立ち上がり、足をプラプラと振った。サンダルから覗く指の爪が黄色く塗られていた。
「ねえ、ご飯食べにいこ、これから予定ある?」
「特にないけど。彼女、今仕事中だし」
「彼女できたんだ?」
「まあ」
「ふーん、よかったね」
特に驚くわけでもなく、ナナちゃんは夜の街を歩きだした。ミツロウはその後を渋々ついていく。
「オレ、行くって言ってないけど」
「でも、ついてきてるじゃん」
「ナナちゃんが一人で歩いていくから」
「まあ、いいじゃん。二人で街を歩いてご飯食べよ、昔みたいに」
「そんな昔じゃないよ」
「そうだっけ?なんかすっごい昔みたいな気がする。昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました、くらいな」
「よくわかんないよ」
たむろしていた男女の集団が大きな声をあげた。ミツロウはその声に刺激され、後ろを振り返った。集団の中の男が一人裸になって踊っていた。蛸のようにくねくねと動くその男に嫌悪を感じた。ナナちゃんは振り返ることもなくスタスタと歩いていく。サンダルがアスファルトをこつこつ叩く。
「彼女はどんな人?」
「オバさん」
「年上好きなんだ、ミツロウくん」
「べつに。ただ気があったから」
「ふーん、でも、よかったね」
ナナちゃんと歩いているとあの頃の光景が急に頭の中に蘇った。なぜナナちゃんと疎遠になったのか不思議に思った。そんなひどいことなどなかったような気がする、ただ自分の神経が過敏すぎただけなのかもしれない、ミツロウは制服を脱いだだけでなにも変わらないナナちゃんの後姿を眺めながら懐かしさに癒された。
ナナちゃんはファミレスの前で歩みを止めた。そこはいつかナナちゃんとミツロウがメールで「ザ・シークレット」というゲームをしたところだった。ナナちゃんはあのときのことを覚えているだろうか、ミツロウはそのことを口に出すべきか迷った。
「ここでいい?」
「べつにいいよ」
「ハンバーグ食べよ、ハンバーグ」
照明が明々と照らす入口にナナちゃんは吸い込まれるように入っていった。店員の質問に指を二本立てて答え、案内された席にどっかりと腰を下ろす。ミツロウがビールを頼むと「いけないんだー」と指さし、それをクルクルと回した。
「ビールなんて毎晩飲んでるよ」
「あら、ずいぶんと大人なんでございますわね」
「なに、その言い方?」
「わたしも大人の女性なの」
二人でハンバーグを頼み、ナナちゃんはドリンクバーからオレンジジュースを持ってくる。ストローをグラスに差し、氷をクルクルと回す。ミツロウはその姿を黙って見ていた。照明の下で見るナナちゃんは、自分で言うとおり、少し大人びて見えた。化粧のせいかもしれない、そう自分を納得させた。
「わたし、高認とるの」
ナナちゃんが思いついたように言葉を発した。
「高認?」
「そう、それで大学受験するの」
「なんでまた?」
「英語の勉強がしたいの」
「ナナちゃんが?」
「おかしい?」
ミツロウは前田さんの顔を思い浮かべた。きっと前田さんがナナちゃんに勉強を勧めたに違いない、そう思った。自分が高校を受験するきっかけも前田さんだった、そのときの前田さんの言葉がありありと蘇ってくる。果たしてあの頃勉強したことは今の自分に役立っているだろうか、そう自問してみたがすぐには答えがでなかった。ナナちゃんは左手の中指の爪を紙ナプキンで拭いていた。
「ナナちゃん、英語好きだったっけ?」
「好きだよ、かっこいいじゃん」
「そうかな」
「英語が話せれば、旅行行っても困んないし、外国の友達もできるでしょ」
「旅行行くの?」
「ううん、まだ予定はない」
「外国の友達がほしいの?」
「どうだろう、まだよくわかんないけど、楽しそうじゃん」
「外人が?」
「そう、外人が」
二人のもとにハンバーグが運ばれてきた。ハンバーグにかかっているこげ茶色のソースが鉄板に落ちて音を立てる。ミツロウは食欲が沸いてくるのを感じた。並べられたナイフとフォークを使い、ハンバーグを切り分けて口に運んだ。そしてすぐにライスをフォークで掬いそれも口に入れた。数回咀嚼してすぐに飲みこむ。喉が「ぐっ」と鳴った。
「わたしね、夢があるの」
ナナちゃんはハンバーグを一口の大きさに切って、それを鉄板の上でころころ転がしていた。ミツロウはハンバーグを頬張りながら「夢?」と聞いた。
「そう、夢。I have a dream.」
「どんな?」
「東京にオリンピックがくるかもしれないでしょ?それでね、そこで通訳をするの。いろんな国の人がくるでしょ?その人たちに英語で話をするの。東京駅はあっちです、とか、ここがお寿司のおいしいお店です、とか、ここのお店の洋服がかわいいです、とか。Welcome to Japan.みたいな」
ミツロウは口に残ったソースをビールで流しながらナナちゃんの顔を見つめた。まるで自分の知らない人のように思えた。
「じゃあ、東京に行くの?」
「そう、大学も東京にする」
「オレは嫌いだね」
「東京が?」
「ううん、オリンピック」
「オリンピックが嫌いなの?」
「というか外人、とくに韓国人」
ナナちゃんは驚いたように眼を大きくした。なぜここで急に韓国人の話になるのかわからない様子だった。ミツロウはここぞとばかりに目を光らせた。
「オリンピックが開催されたらいろんな国から観光客がくるだろ。韓国人ももちろんくる。あいつらはきっと日本を侮辱するんだよ」
「そんなことしないよ」
「ナナちゃんは知らないんだよ。前に日韓共同でサッカーのワールドカップがあったでしょ?そのとき、韓国がどういうことをしたか知ってる?日本が得点するとブーイングするし、負けると喜ぶんだ。それだけじゃない、韓国が対戦相手のチームにどんなひどいことをしたと思う?普通なら反則をとられるくらいのラフプレーをして、相手の選手に怪我をさせてるんだ。しかも審判はそれを見て見ぬふりをした。一度ネットで見てみなよ。どれだけひどいことをしたかすぐにわかるよ」
「ふーん」
「スポーツに政治的なものを持ち込まないっていうのが国際的なマナーなんだよ。韓国はそんなことお構いなしに相手国を侮辱するんだ。きっとオリンピックだってひどいことになるよ。いっそのこと韓国だけ呼ばないようにすればいいんだ」
「でも、それって一部の人でしょ?フーリガンっていう人たちみたいな、テレビでよくやってるもんね」
「ううん、韓国は国全体がそうなんだよ」
「ふーん、ミツロウくんはなんでそんなこと知ってるの?」
「仲間とね、毎日勉強してるんだ」
「勉強?ミツロウくんが?」
「そうだよ、ナナちゃんが英語の勉強してるみたいに、オレもクニについて勉強してるんだ。愛国だよ」
「アイコク?」
「そう、日本を愛して、日本を守るんだ」
「誰から?」
「韓国や北朝鮮から」
ミツロウは自分の言葉に酔っていった。正しいことを言っているんだという優越感があった。身体が熱を帯びていくのがわかった。気分が高揚していた。ナナちゃんはハンバーグの欠片をまたころころ転がしていた。鉄板にはハンバーグが半分残っていた。
「なんか、バカみたい」
「バカみたい?」
「みんなで仲良くした方がいいかと思うけど」
「あいつらが喧嘩をふっかけてくるからしょうがないよ」
「なんかそういうのミツロウくんぽくないよ」
「どこが?オレっぽいってなに?」
「しらない」
ナナちゃんはフォークを鉄板の上に放り投げると、席を立った。
「わたし、家に帰って勉強するから。じゃあね、バイバイ」
千円札をテーブルにだし、その上からオレンジジュースの入ったグラスを置いた。千円札に水滴が染み込んでいく。
「いいよ、オレがおごるよ」
ミツロウのその言葉にナナちゃんは肩をすぼめて首を傾げた。そして千円札を置き去りにして入口へと歩いていった。サンダルが床を叩くこつこつという音が響いた。
ナナちゃんが出ていくと耳の中で静けさがこだました。高揚した気分が徐々に冷めていく。ミツロウはぬるくなったビールを口に運んだ。アルコールの嫌なにおいがした。
「オレとなにが違うっていうんだよ」
ミツロウはナナちゃんの言葉を思い返しながら独り呟いた。
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