【長編小説】父の手紙と夏休み 9

母が朝食の時間を告げにくるまで奈々子は『ノルウェイの森』に没頭した。『直子』が大学を辞めて京都の診療所に入り、『突撃隊』から貰った螢が飛び去ったところで本を閉じた。

少しの間、目を閉じて小説の世界の余韻を味わう。そして椅子から立ち上がり母の作った朝食を食べに向かう。珍しく朝からお腹が空いていた。

「おはよう」

母はキッチンでベーコンエッグを作っていた。焦げたベーコンのにおいと玉子の焼けるパチパチという音が食欲を刺激した。

「あら、今日は珍しく起きてきたわね」

「うん」

奈々子は椅子に腰かけ、テーブルの上のトーストをぼんやり眺めた。トーストはこんがりと焼きあがり、茶色い焦げ目が学校の運動場を思い出させた。サッカー部がボールを追いかけて走り回り、陸上部が空に向かって飛び上がる運動場。そして音楽室から聞こえる吹奏楽部の練習の音。奈々子は部活動の声で賑わう放課後の校庭のようなトーストにバターを塗り、一口齧った。

母が焼きあがったベーコンエッグをテーブルに置き、「牛乳?紅茶?」と聞く。奈々子は口の中のトーストを飲み込みながら「牛乳」と答える。

「お父さん、出張もう少し延びそうだって」

母は冷蔵庫から牛乳をとりだしコップに注ぐ。

「ふーん、仕事忙しいんだ?」

奈々子は母から手渡された牛乳を一口飲み、テーブルに置いた。父の手紙が頭に浮かんだ。そのことが母に伝わってしまうような気がして、頭から手紙のことを追い払おうとベーコンエッグにフォークを突き刺した。母はお湯の入ったマグカップに紅茶のtea bagを浮かべている。

「はじめに頼まれてた仕事は終わったみたいなんだけど、そこでお客さんに違う仕事も頼まれたみたいよ。ああ見えて仕事はきっちりしてるのよ」

「そうなんだ、意外だね」

フォークの隙間からドロリと垂れる黄身の色が目にまぶしかった。あんな手紙を書く父だから仕事も真面目にこなしているに違いない。本当に真面目すぎるくらい真面目で、正直すぎるくらい正直なんだ、あんな手紙を渡されたら困るんだろうな、宮崎恭子さん。奈々子はフォークについた黄身を舌でぺろりと舐めた。

父はあの手紙を渡したのだろうか、ふとそんなことが気になった。

それを読んだ宮崎恭子さんはどう思ったのだろう、やっぱり困ったのかな。そりゃ困るよね、あんな手紙。

「今日はちゃんと勉強しなさいよ。お父さんも心配してたわよ」

「やるよ、大丈夫」

奈々子は残ったベーコンエッグをトーストに乗せ、それを口に放り込んだ。バターと黄身とベーコンの脂が混ざり合って、なんだか口の中が重いような気がした。コップ半分の牛乳を一息で飲み干し、口の周りをティッシュで拭く。高ぶっていた心が少し落ち着いたような気がした。母は頬杖をつきながら紅茶を啜っている。皿にはまだトーストが半分残っていた。

「ごちそうさま、私、勉強してくるね」

「少しやる気になった?まあ、今だけだから我慢してがんばんなさい」

「まかせといて」

奈々子は母に満面の笑みを向け、自分の部屋へと戻った。そしてまた『ノルウェイの森』を読みはじめた。

時間は不思議なほど早く過ぎていった。自分の集中力がこれほどまで長続きするとは、奈々子は文字で占められた頭を小さく振りながら本から目を離した。

『ノルウェイの森』はあと数ページで上巻が終わるところだった。今読んでいるページにシャーペンを挟み、トイレに行こうと席を立つ。なんだか視点が定まらず、足元がふらふらした。見慣れている自分の部屋がいつもと違う場所のように見えた。

『阿美寮』の情景を思い浮かべながらトイレを済まし、冷たい水で顔を洗った。洗面台の鏡に映った自分の顔をよく覗き込む。そしてその顔を『直子』の顔に重ね合わせてみる。そして『直子』の心を自分の中に溶け込ませようと試みる。しかしそれはどこまでいっても小説内の言葉から外へは行かなかった。

幼馴染であり、最愛の恋人である『キズキ』が亡くなったこと、信頼していた『お姉さん』が亡くなったこと、大事な人が自分の周りから急にいなくなること、言葉では理解できたが実感としてそれがどういった感情を自分に齎すのかうまく想像できなかった。

『僕』も『直子』も愛することがどういうことなのかわかならいと言った。でも二人には恋人と過ごした経験もあり、お互いがお互いを深く愛しているように思えた。彼らが愛することの意味がわからないなら私なんてもっとわからない。

奈々子は学校のクラスメイトの顔を思い浮かべる。あの人たちだってきっとわからないに違いない。クラスの友達はテレビの誰々がかっこいいとか今まで何人とセックスしたとかそんな話ばかりだ。恋愛の話をしてもテレビドラマか漫画の物真似ばかり、「愛してる」なんて口にだしても上辺だけで、本当はそう言ってる自分を相手に見せびらかしたいだけなんだ。

「私には人を愛するということがよくわからないの」

奈々子は鏡に映った自分に向かって語りかけてみた。口から発せられたその言葉は耳の中で空々しく響いた。そして恥ずかしい気持ちになった。自分が薄っぺらい人間のように思えた。誰かを強く愛したくなった。でもだれを?対象もなく愛することだけを求める自分はまだ子供なんだ、奈々子は息を吐き、もう一度顔を洗ってタオルでよく拭いた。

部屋に戻って『ノルウェイの森』上巻の残りの数ページを読み切った。小さな達成感が心に生まれ、机に置いた下巻は開かずにおいた。緑の表紙を眺めながらその内容を想像する。『僕』と『直子』はどうなるのか、『緑』との関係は?父の手紙で『直子』から『緑』へ『僕』の関心が移るのは想像できたが、果たしてあれだけお互いが心を惹かれている二人がなぜ繋がらなかったのか?頭の中でその展開をいろいろと思い浮かべているうちに眠気がやってきた。

そういえば昨日はほとんど寝てなかったな、奈々子はベッドに横になった。ベッドのほどよい弾力とタオルケットが肌に触れる感触が心地よかった。日の光がまぶしくタオルケットを引っ張り顔にかける。タオルケットから香る自分のにおいがなんだか愛おしく感じた。奈々子はそのにおいに包まれながら深い眠りの中におちていった。

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