【長編小説】父を燃やす 4-3
真治がはじめて一人での生活を営むことになった部屋は東京の郊外にある1kのアパートだった。
玄関をあがってすぐ左手にバス・トイレ共用の部屋があり、その少し先に小さなキッチンがある。奥の部屋は六畳ほどの広さで東側にベランダがあった。床はフローリングで内壁は白いクロスで覆われている。床と壁にはよく見ると小さな傷があり、真治の前にそこに住んでいた人間の痕跡が残っていた。エアコンははじめから設置されており、冷蔵庫と洗濯機を置けばそこですぐに生活ができるようになった。
はじめての一人暮らしに最初のうちは寂しさを覚えた真治だったが勉強とアルバイトに明け暮れるうちにそのような感情は胸の内から消え去っていった。
家賃に光熱費、携帯電話料金、食費など月に消えていく金は十万円をゆうに越していた。真治はそれをアルバイトで稼ぐ金と奨学金でやりくりした。入学金を出してくれた母にこれ以上負担をかけたくなかった。
自分の生活は自分で成り立たせる、一人暮らしをはじめる際の決意を真治は愚直なまでに実行した。授業以外の時間はほとんどアルバイトに費やし、部活やサークルなどには参加しなかった。食事はなるべく自分で作るようにし、大学の友人との交際以外では外食はしなかった。安くて日持ちのする食材を使いまわし、冷凍庫をうまく活用した。節約生活と地道な労働によって真治の生活は安定したものになっていった。
「お兄ちゃん、お母さんがこれ持ってけって」
玄関で座りながら靴を脱ぐ陽菜が大きな声をだす。
「そこらへんに置いといてくれよ」
真治はその声に曖昧な返事をした。
真治が東京に住むようになると陽菜は頻繁にその部屋を訪れた。母から頼まれたものを持ってきたと言う陽菜だったが本当の目的は原宿や渋谷に繰り出すことだった。
高校生活を謳歌している陽菜の外見は日に日に大人になっていくようだった。陽菜の短いスカートと厚めの化粧を眺めながら真治は精神的に子供のままである妹が成熟した身体つきに変化している様を疎ましく思った。陽菜はそんな兄の気持ちなど気にする様子もなく突き出した足をドタドタと鳴らしながら部屋を歩く。
「お兄ちゃん、男のわりに部屋きれいにしてるね」
「うるせえな。そんなことよりお前の服装、どうにかしろよ」
「いいじゃん別に。お兄ちゃんに関係ないでしょ」
「おれが恥ずかしいんだよ」
「関係なくない?」
「子供のくせに」
「ふんっだ。関係ないし」
陽菜はふてくされたように頬を膨らませると殺風景な部屋をぐるりと見まわした。そしてそこに自分の興味を引くようなものがないのを見てとるとどさりと床に腰を下ろした。
「お兄ちゃん、今日バイトは?」
「夜から」
「ふーん、ねえ、今日泊めてよ」
「はあ?お前帰れよ」
「いいじゃん、今日、夜まで友達と買い物するから」
「買い物終わったら帰れよ。友達も帰るんだろ?」
「友達は家近いもん」
「知らねーよ」
真治は陽菜にかまってられない雰囲気を装うため机に広げたミクロ経済学の教科書に目を走らせた。視界に広がる限界費用曲線のなかに利益を追求する資本家の姿を思い浮かべた。
「ねえ、いいじゃん。泊めてよ」
投資した費用が最大限の効果をあげ、利潤が最大になる位置を探る資本家。資本を使って生産し、それを販売して新たな資本を得る。初めの資本から転化された生産物に付与される新たな価値。それが労働によるものでも、技術革新によるものでも、あるいは記号の操作によるものでなんでもいい。ただ資本を増殖させ続けることが富の増大につながるのだ。それがこの社会ってものだろ。なあ、悠太。
「ちょっとお兄ちゃん、聞いてる?」
陽菜の甲高い声が耳に突き刺さり、真治は資本の増殖過程から目を覚ます。一つ大きく息を吐きあきらめたように視線を移すとそこには記号を身にまとった妹の姿があった。
だれかが記号を操作し、他との差異化を図り、そしてその差異に敏感な子供をだまして金を稼ぐ。ふとそれがとても理不尽な行いのように思えた。
「陽菜さ、その服とかどうやって買ってるんだ?」
「べつに。バイトしたりとか」
「お母さんから小遣いもらってんだろ」
「たまにだよ・・・」
「お前さ、お母さんがどんだけ苦労して金を稼いでるか考えたことあるか?」
「なに?お説教?キモいんだけど」
うしろめたさを感じたのか陽菜が下を向く。
悠太、お前の言う通りかもな。
真治は陽菜の姿に今村悠太を重ねながら考える。
経済も富の増大もくだらないものかもな。くだらないものを作ってくだらない連中を喜ばせて金を得るんだよ。切実な思いはなにもない。ふやけた欲望を慰めながら金が回っていく。それを資本主義って言うんだってさ。
ふと今村悠太が陽菜のことをどう思っているかが気になった。
「陽菜、悠太は最近どうだ?」
「悠太君?」
話の方向が変わったことを喜ぶように陽菜は大袈裟な動作で顔をあげた。宙を舞う髪から甘ったるい香水のにおいが香る。
「悠太くん忙しくってあまり遊んでくれない」
今度は甘えたように口をとがらせる陽菜に真治は「こいつらまだ付き合ってるのかよ」と心の中で苦笑した。
「バイトと勉強で忙しいみたいだけど」
「まあ、おれと一緒だな」
「ううん、あとね、ずっと漫画描いてるの」
「漫画?」
「そう。バイト休みのときでも家に籠って漫画描いてて。陽菜と全然遊んでくんない。お兄ちゃんのせいだからね」
「は?オレのせい?」
「そうだよ。悠太君、お兄ちゃんに負けたくないって。それでずっと漫画描いてるの。お兄ちゃんを驚かせるような漫画を描くんだって。だからお兄ちゃんのせい」
怒ったような口調で真治を責める陽菜の瞳は輝いていた。構ってもらえないさみしさよりも自分の恋人が夢中でなにかをしていることが誇らしい様子だった。
陽菜の瞳から感じ取れる今村悠太の熱意に真治は心を動かされるようだった。現実の今村悠太がどんなことを考えているかが知りたかった。経済学の教科書に浮かび上がる真治の中の今村悠太ではなく、文学を学び漫画を描き続ける現実の今村悠太と話がしたかった。
悠太、お前は今、どんな漫画を描いてるんだ。
机に向かいペンを走らせる今村悠太の姿を想像する。きっとそこには真治がいつも今村悠太の影に問いかけていることへの返答が描かれているのだろう。
なあ、悠太、お前にはこの世界がどう見えてるんだ。
真治は陽菜に向かって笑いかけた。陽菜は不思議そうに首を傾げた。
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