【長編小説】父を燃やす 7-3

自宅の寝室にその絵を飾ると妻はあからさまに嫌な顔をした。

「なにその下品な絵は?」

「友人に頼まれてね、買ったんだよ」

妻は絵に近づき、赤く染まったナプキンをじっと見つめる。

「いくらだったの?」

「二十万」

「これが?」

妻はあきれたように溜息をつくと、ばかばかしいとばかりに肩をすくめて寝室をでていった。真治はベッドに腰をおろし、妻があきれるだけの下品な絵に視線を向けた。

真っ白な背景の中央にぼんやりと浮かぶ和式の便器。横にぽつんと置いてある真っ赤なナプキン。構図や色彩が意味するものを悉く退け、真治は中央にぽっかりと開く深い闇を眺めた。

闇、黒はどんな光をも吸い込み、その痕跡を消し去っていく。その奥に汚物が溢れていることすら想像させない。そこにはどんなものも無い。完全なる無だった。無である黒。

無というものには果たして色があるのだろうか。真治はぼんやりとそんなことを考えた。無に色があるとしたらやはりこのような黒なのだろう。瞳に映る揺るぎない黒は真治を落ち着かない気持ちにさせた。

なぜおれはこの黒を見ると落ち着かない気持ちになるのだろうか。しばらくの間、その理由に頭をひねらせたが、思考は目の前の黒に吸い込まれるようにして消え去っていき、残されたのは言葉にできない感情の揺れ動きだけだった。

真治は絵から目を放し、上着をハンガーにかけ、ワイシャツを脱いだ。そして妻と子供の待つリビングに向かうため、寝室をあとにした。

食事を終え、一家の団欒を楽しみ、風呂に入ってからベッドで妻と少し語らった。妻は子供たちの学習意欲について心配をし、入れるべき学校について真治の意見を求めた。真治は妻の選択を最大限尊重することを伝え、そして勉強に関するいくつかのアドバイスを妻に与えた。

妻は青山で行われている自然食品のマーケットの話をし、いつか自分でも自然食品を使用したカフェを経営したいと言った。そのためにはまずは子供をしっかりとした学校に行かせなければ、妻は自分と子供の未来に大きな希望を抱いていた。

真治は妻の言葉に耳を傾けながら自分の未来について考えた。会社の将来、家族の将来、すべては完璧に実現しているように思えた。一通り話し終えた妻が「もう寝るね」と言って真治にキスをした。真治は「おやすみ」と答え、そして静かに目を閉じた。

闇がすべてを包んでいた。そこにあるのは意識だけだった。自分が思考している意識だけが自分の存在を保証していた。

自分に身体があるのか、身体は闇と溶け合い、外部と内部の境界が限りなく曖昧だった。真治は自分がただの思念になってそこにあることに恐怖を感じた。それは根源的な恐怖だった。完璧な孤独だった。

真治は誰かを呼ぼうと声を出す。しかし口は?自分に口があるのかはっきりとわからなかった。叫んでいるつもりではあるがそこに表されている言葉が思念なのか声なのか判然としなかった。

真治は黙る。思念を止める。闇と同化する。

完全な静寂はそこに何者かの存在を感じさせる。その何者かは真治と同じく闇と同化している。

真治は声を聞く。何者かが発する思念を受け取る。冷たい汗が流れる。

汗?

真治は手で身体をさわる。

手?

身体の感覚が急速に戻ってくる。

真治は目を開ける。そこには淡い闇があった。その闇に目が慣れてくるとそこが自宅の寝室だということがわかった。

真治は静かに身体を起こす。パジャマが汗でびっしょりと濡れている。真治は手で首をさする。首のベタベタした感触が気持ち悪かった。真治は隣で眠っている妻を起こさないように身に着けているものを脱ぎ、そして脱いだパジャマで身体に残っている汗を拭きとった。

胸に夢で見た恐怖と孤独の感触がうっすらと残っている。真治は全裸のままベッドに座り、ぼんやりと壁を見つめた。

壁には絵がかかっており。その中心にあの闇がある。それはもはや無ではなかった。一対の目が真治の瞳を捕らえていた。夢で感じた声が聞こえてくる。真治はその声を聞きながら闇から送られる視線をただ受け止めていた。

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