【新連載】真夜中の森を歩く 1-2

父が床に肘をつき横になってテレビを眺めていた。テレビから乾いた笑い声が響く。母は近所のスーパーへパートに出ている。ミツロウは部屋の隅にうずくまり、おもちゃの車で遊んでいた。夕方には帰ってくると言う母の言葉を信じて、なるべく静かにしていようと思った。ときおり父を盗み見ては祈りの言葉を呟いた。父が自分に近づいてこないようイエス様にお願いをした。

父は黙ってテレビを見ていた。ミツロウなどいないかのようにときおり咳をしたり、放屁したりした。そのたびにミツロウは体を震わせた。外に遊びにでようと思ったが、それを父に言うことが怖かった。ただ手に持った車を壁にぶつけながら時間が過ぎていくのを待つことしかできなかった。テレビの音が不快だった。

昼になり父は気怠そうに立ち上がった。冷蔵庫を開け母が用意しておいた昼食を取出し、机に並べていった。ミツロウはそれを部屋の隅から眺めていた。

「お前も食べるんだろ?」

父はミツロウに向け言った。ミツロウは大きく頷いた。腹が減っていた。机の前に座り、父が座るのを待った。

父は味噌汁の入った鍋に火をかけ、炊飯器をかきまぜた。自分の分を用意するとミツロウをちらと見てから子供用のプラスチックの容器にご飯をよそった。そして無言のまま食べはじめた。

ミツロウはお祈りの言葉を頭に浮かべたが口にはしなかった。父が嫌がると思った。父が嫌がることをなぜ母は教えるのだろうと考えたが、腹が減っていたのですぐに忘れた。

ご飯と味噌汁は温かかった。肉じゃがと筑前煮は冷たかった。父は文句も言わずに黙々と食べた。ミツロウも黙ったまま冷たい豚肉を口に入れ、ご飯で温め、味噌汁で流し込んだ。

茶碗はすぐに空になった。まだ食べ足らなかった。空の茶碗を机に置き、父の方を見た。父は茶碗にお茶を入れ、それで口を濯いでいた。ミツロウの視線に気づくと「もっと食いたいんなら自分で入れろ」と言った。ミツロウは「もういい」と言って箸を置いた。「なら片づけろ」父は煙草をふかした。煙のにおいにミツロウは顔をしかめた。茶碗と箸を持ち、逃げるように台所へ向かった。洗い桶に茶碗と箸を放り込み、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに入れて飲んだ。もういやだ、そう思い、父のもとへ戻って「外で遊んでくる」と伝えた。父はミツロウの方を見もせず、ただ「そうか」と言った。部屋中に煙が漂っていた。

ミツロウに行く場所はどこにもなかった。あてもなく家の近所をフラフラと歩いた。灰色の雲が空を覆い、空気は冷たかった。母が早く戻ってくればいいと思った。

落ちている石を拾って投げた。石は地面を叩き、乾いた音がした。特におもしろくはなかった。

いつまで外にいればいいのだろう、ミツロウは数を数えた。そうすると時間が自分の中に蓄積されているように思えた。自分は待っているのだと思った。待つとは時間が過ぎていくことだと認識した。時間とは母だった。同じ数字を幾度も繰り返した。十以上の数字がわからなかった。それでも時間は過ぎていった。十を十回言った。空は同じ灰色だった。もっとはやく数えればいいんだ、ミツロウはできる限りはやく数字を頭に並べた。

鳥が頭上を飛び、自転車が一台通り過ぎた。ピアノの音がどこからか聞こえてくる。ミツロウは数を数えるのをやめ、また歩きだした。

前から女性が歩いてくる。白いセーターを着て右手に買い物袋を提げていた。セーターの上からでも胸の丸みがよくわかった。暖かく柔らかそうだった。

女性が通り過ぎるとミツロウは振り返り、後を追った。女性から少し離れたところをゆっくり歩いていく。女性はミツロウに全く気がついておらず、ときおり買い物袋を別の手に持ち替えた。下半身はジーンズに白いスニーカーだった。ジーンズは体に密着していた。全体的に丸みのあるフォルムだった。ミツロウはその足に、胸に、抱きつきたかった。そうする勇気がなく、ただ女性の後をつけた。

女性はまだ新しい一軒家の中に入っていった。郵便受けを確認し、ポケットから鍵を取り出しドアを開けて中へ姿を消す。ミツロウはその姿をじっと見ていた。胸の膨らみが頭に残った。暖かそうな白いセーター。柔らかそうな丸い身体。

ミツロウはその家の周りをグルグル回り、中の様子を窺った。小さな庭があり、背の低い木が二本あった。なにもかかっていない物干し竿があり、縁側には花の咲いた鉢植えが並んでいた。子供用の自転車あった。その横には真新しいサッカーボールが置かれていた。

ミツロウはさっきの女性が現れるのを待った。窓ガラスは薄いカーテンで遮られ、中の様子はわからなかった。ときおり子供の甲高い声が聞こえる。体が冷たかった。温もりがほしかった。丸い胸、柔らかい胸、包み込む胸、胸の中へ、胸の中へ。

一つの部屋に明かりがさした。薄いカーテンに女性のシルエットが映る。女性は厚手のカーテンを閉めた。シルエットは消えた。ぼんやりとした明かりが残った。空は暗くなりはじめていた。家に帰ろう。ミツロウは母の顔を思い浮かべた。

心配する母の顔が浮かんだ。「どこにいってたの?」母はきっとそういうに違いない。ミツロウは心を弾ませながら家のドアを開けた。

家の中は静かだった。玄関に母の靴がある。母は帰っている。ミツロウは部屋へと転がり込んだ。

父が眠っている。机に突っ伏し、顔を横に向けながら。酒のにおいがした。机には酒の瓶とコップが置いてある。コップには透明な液体が残っている。父の呼吸にあわせて微かに揺らめいている。煙草の吸殻が灰皿にたまっていた。机にも灰が散らばっている。

母は?ミツロウは母を探しに奥の部屋へと入った。部屋は暗かった。薄い闇に母の姿が映った。母は布団の上に座っていた。まるで動かなかった。父のにおいがした。そのにおいはミツロウを不安にさせた。

「お母さん」

ミツロウは部屋の入り口から呼びかけた。母がこちらを向いたのがわかる。ゆっくりとした動き。母は頬を手でこする。

「ミッくん、おかえり。どこいってたの?」

静かな声。母は立ち上がり電気を点けた。ミツロウはまぶしくて目を細めた。母の姿が鮮明に映った。紺のセーター、ベージュのスカート。丸い胸、柔らかな胸。ミツロウは母のもとへと駆けた。ミツロウが抱きつくと母は手を頭へと乗せた。そして息を大きく吐いた。

「どこへ行ってたの?」

「探検」

母は笑ったようだった。

「晩御飯作るね、お腹すいた?」

「すいた」

ミツロウは母の顔を見上げた。右の頬が赤く腫れているように見えた。母はその頬に手をあてた。

「さあ、行きましょう。ミッくん、手伝ってね」

母に手を引かれ部屋をあとにする。振り返ると部屋の隅にミツロウのおもちゃの車が転がっていた。車は醜く歪んでいた。

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