【長編小説】父を燃やす 7-4

「そういえば、あの絵、どうしたの?」

妻がトーストにバターを塗りながら真治に尋ねる。

「ああ、あれは他の人に売ることにした」

「あなた以外にもあれをほしがるもの好きがいるのね」

妻はバターを塗ったトーストを日向の皿に置く。日向はトーストを小さくちぎり、口の中にいれる。真人が自分にも早くよこせとばかりにフォークで皿をカンカン叩く。

「真人、行儀悪いわよ」

妻は真人に厳しい視線を送ると焼きあがったトーストにバターを塗って真人に渡した。真人はそのままトーストにかぶりつく。パン屑がテーブルに落ち、妻がそれを布巾で綺麗に拭き取る。真治は新聞を広げながらいつもと変わらない風景を楽しんでいた。

一対の目が現れてから真治は毎晩同じ夢を見た。闇の夢。夢にはいつも声が含まれていた。その声の主がだれなのか、そのことが頭を離れなくなった。

声の主を考えはじめると真治の心に大きな空虚感が生まれた。そのぽっかりと空いた穴は、真治にどうしようもない渇きをもたらした。その渇きが生まれると全ての思考が停止し、身体が固く強張った。

渇きは真治になにかを求め、真治はその求められているものを必死で探した。

一体おれはなにを求めているのだろうか。

渇きが薄れるたびに真治は考える。金も地位も家族も手に入れた。おれに一体なにが足りないというのだ。真治は寝室の絵を眺め、そして一対の目を見つめつづけた。

同じ夜を繰り返す日々に急に訪れたその考えは真治の身体を自然と動かした。

同じ夢を見、パジャマを濡らし、全裸で絵を見つめる真治はふと思い立ち、その絵を壁から外した。そしてそれを持ったままキッチンに向かうと引き出しからチャッカマンを取り出し、何日か分の新聞を持って庭にでた。

真治は絵を地面に放り投げ、新聞を適当な大きさにちぎって絵の下に置いた。そしてチャッカマンで新聞に火を点け、火が絵に燃え移っていく様をぼんやりと眺めた。

絵に燃え移った火は次第に大きな炎となって全裸の真治を照らした。真っ白なキャンバスが次第に赤い炎で染まっていく。便器の奥の闇が白い灰に代わっていく。

真治は自分の心が急速に満たされていくのを感じた。ぽっかりと空いた穴がゆっくりと埋まっていく。その充足感は今までに感じたことのない感情を真治に齎した。

身体の隅々まで快感が走っていく。自分が求めていたものを探し当てたような気がした。絵がすべて真っ白な灰に変わったのを見届けた真治は、その上に小便をした。風が小便のにおいとともに灰を舞い上がらせた。

広げた新聞に視線を向けながら真治は絵を包んでいく炎を思い浮かべた。心の中が満たされていくのを感じた。あれはもう消え去ったのだ。

「お父さん、ちょっと日向に言ってよ」

妻が困ったような声をかける。真治は新聞を折りたたみ、テーブルの端に置く。日向そしらぬ顔でトーストを口に運んでいる。妻はそんな日向を顔をしかめて見ている。

「日向がなにかしたのか」

「したのかじゃないわよ。日向、お友達を泣かしたんだって」

「ちがうよ、あの子が勝手に泣いたんだもん」

日向はトーストを皿に戻し、不平の声をあげる。真治はそんな日向の顔をよく見た。人形のように整った顔立ち、自分の子供ながら容貌に恵まれていると思う。真治の視線に気づいた日向が媚びるように小さく首を傾げた。

「それで?」

真治は視線を日向から妻に移す。妻は真治と目をあわせると小さく溜息をついた。

「お友達を仲間外れにしたんだって。他の友達に命令して無視させたんだって。ちょっとこの子、女王様になるわよ」

真治は「女王様」という言葉に思わず苦笑した。そして小学校の頃の自分を思い出した。

「ちょっとお父さんから言ってよ。そのうち手が付けられなくなるわよ」

「ちがうよ、わたしが悪いんじゃないもん。あの子が悪いんだもん」

「いいわけしない」

妻が日向を叱ると日向は真治に視線を向け、悲しそうな表情をする。その態度が妻の機嫌を益々損ねた。

「ちょっとお父さん!」

「わかったよ」

妻に促され、真治は日向に道徳を説いた。父という役割を引き受けるときの気恥ずかしさが心に浮かんだが、それもすぐに消え、役割と人格が一致する。父であることの誇りと自信が満ちてくる。真治の言葉に日向は素直に聞き入っている。妻は満足そうに真治の言葉に耳を傾けている。真人も食事の手をとめ、真治を見上げる。

一つ、二つ、三つ、家族の視線が父である自分に注がれる。そして四つ。

四つ?

真治は四つ目の視線を探した。それは尊敬と愛情に満ちた家族の視線ではなかった。冷たく観察する視線。

それはまだ消えていない、

日向に向け言葉を発しながら、真治は背中に一筋の汗が流れるのを感じた。

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