【長編小説】父の手紙と夏休み 12

鳥の鳴き声がした。奈々子がゆっくり目を開けると薄暗い自分の部屋が映った。身体を起こし机の上の目覚まし時計に視線を移す。6時半。まだ起きるには早いような気もしたが、もう一度眠りにつくには遅すぎるとも思った。

両手を高く上げ大きく伸びをする。身体から夢の残骸が抜け出ていく。伸びをした勢いでそのままベッドから飛び起きる。両手を組み合わせ前に伸ばす、首をゆっくり二度回す、深呼吸を大きく長く一回。

「よしっ」

いつもは眠気でぼんやりしている頭も今日はすっきりしていた。やるべきことがある、それは学校の先生や母のお説教なんかよりもずっと気分を高揚させてくれた。

カーテンを開けるといかにも夏らしい太陽がいつも通りに輝いていた。その激しい自己主張ぶりに奈々子は「まあまあ、落ち着きなさいよ」と声をかけた。太陽より少し大人になった気分だった。

部屋で軽いストレッチをしたあと、奈々子は部屋を出てキッチンに向かった。キッチンはまだ暗くひっそりとしていた。母はまだ起きていないようだった。たまには朝ごはんの準備でもしてあげるかな、そう思い冷蔵庫を開けたが頭の中で朝食の献立を考えているうちにめんどうになってやめた。

冷蔵庫から牛乳を取出し、コップに注いで一気に飲み干す。「ぷはー」と大げさに声を出すと腹から笑いがこみあげてきた。ひとしきり一人で笑ったあと牛乳を冷蔵庫にしまい、シンクで水を流してコップを洗った。母が起きてくるのを椅子に座ってしばらく待ったが遅々として進まない時間に苛立ちすぐに立ち上がって風呂場へと向かった。頭から熱いシャワーを浴び、新しい下着を身に着ける。ドライヤーで髪を乾かすと自分の髪からシャンプーの香りがして気分が良くなった。

鼻歌を歌いながらキッチンに戻るとそこには母がいた。母はパジャマのまま椅子に静かに座っている。

「おはよう」

奈々子がそう声をかけると母は驚いたように振り返った。

「あら、今日は早いのね」

「うん、今日は図書館行くから」

「お友達と一緒?」

「ううん、一人。そうだ、お風呂入ったよ」

「うん。今、朝ごはん作るからね」

「お弁当もお願い」

「はいはい、ちょっと顔洗わせてね」

母は椅子から静かに立ち上がり、洗面所に歩いていった。すれ違うときに奈々子の頭をポンポンと二回叩き、大きなあくびをした。母からは化粧水のにおいがした。

母が作った朝食を食べ、お茶を啜る。緑茶の渋みが口にいつまでも残っているような気がして奈々子は顔をしかめた。母は特になにも気にせずお茶を飲んでいる。

「図書館は何時から?」

「九時から。8時半にはでるよ」

「はいはい、それまでにはお弁当作っとくわよ」

「水筒にポカリ入れといて」

「ポカリスエットないわよ。牛乳ならあるけど」

「えー、水筒に牛乳入れる人いないよー」

「いいじゃない牛乳。身体にいいわよ」

「自販機で買うからお金ちょうだい」

「あんたお金持ってるでしょ、春休みバイトしてたじゃない」

「そんなのもうありませーん」

「はいはい、そうやって甘えてられるのも今年までだからね。大学生になったら厳しくするわよ」

「大学落ちたら?」

「もっと厳しい」

母はそう言って笑うと奈々子と自分の湯飲みを持ち上げ、シンクに向かう。奈々子はその後ろ姿を見ながら父の手紙のことを思い出していた。なんとなく母が可哀そうに思えた。

「おにぎり、おかかね」

奈々子は母に向かって声をかけると立ち上がって自分の部屋に向かった。母のためにも全てを明らかにしなければいけない、胸の中でそう強く決意した。

部屋に戻ると奈々子は図書館に行くための準備をはじめた。バックにノートと筆記用具、財布、携帯電話、化粧ポーチ、制汗スプレー、日焼けどめ、そして『ノルウェイの森』を入れる。少し迷ったが父の手紙は置いておくことにした。

「さて、お着替えお着替え」

パジャマを脱ぎ捨て、クローゼットからネット通販で買った洋服を取り出す。今日は楽な格好でOK!白いタンクトップを被り、その上から青いデニムのシャツを羽織る。白いショートパンツを穿き、髪は纏めて後ろで縛る。眉毛を書いて、軽めのメイクをして準備万端。

目覚まし時計を見ると出発までまだ少し時間があった。バックから『ノルウェイの森』を取出し、パラパラと適当なページを読み返す。昨日感じた心の震えは胸の奥で眠っているようで、本に書かれた文字がなんの引っ掛かりもなく頭を過ぎていく。少し物足りないような気もしたが、今それがこられても困るなと思い直し、すらすら入っていく言葉を素直に受け入れた。

『阿美寮』の鳥が『アリガト、キチガイ、クソタレ』と鳴いたところで奈々子は本から目覚まし時計に視線を移した。時計の針は8時45分を指していた。

「やばいやばい」

奈々子は『ノルウェイの森』をバックに仕舞い、それを担いで部屋を後にした。

キッチンに行くと母が洗い物をしていた。テーブルの上にはピンクの袋に入れられた弁当箱と千円が置かれていた。

「えー、たったの千円?」

「飲み物買うだけでしょ。どこかに旅行に行くわけでもなし」

「ある意味旅行だけど」

「どこに?」

「京都」

振り返った母が怪訝な顔をして奈々子の顔を覗き込む。奈々子は視線を逸らし、弁当袋と千円札を握りしめ飛び出すように玄関へ向かった。

「帰る前に電話しなさいよー」

母の甲高い声が耳に響いた。

春のバイトで稼いだお金で買ったサンダルを履き、玄関をカンカンいわせながら外に出る。強い日差しが肌を焼き、湿った空気が身体にまとわりついた。右手を額にかざして太陽を見上げる。

360度に放射された光が目にまぶしかった。空には雲一つなく、手を伸ばせば捕まえることができるような青空が太陽の白だか黄色だかわからない光と交じり合って目の中をゆらゆら泳いでいた。

帽子を被ってくればよかった、そう思ったが自分の帽子を持っていないことに気づき「残念」と息を吐く。今度かわいい帽子を買おう、高原でどこかのお嬢様が被るような素敵な帽子を。父が庭を掃除するときに被るヤンキースのキャップなんて、いくら熱中症対策だと言ってもまっぴらごめんだ。

母の日傘を借りようとも思ったが、よく考えれば今から自転車に乗るのに日傘もないだろうと思い直し、あきらめて庭の隅に置いてある自転車に跨る。

庭を一周してから道路に飛び出し、図書館までの道を頭に思い描いきながらペダルを思い切り漕いだ。自転車がスピードをあげるうちに暑さは気にならなくなった。身体を通り抜けていく風が気持ちよかった。汗を帯びた肌は太陽の光と風を浴びながらきらきら光っていた。

あー、これ絶対に焼けるな。奈々子は黒くなった自分の肌を想像しうんざりしたがそれでも気分は良かった。

夏、太陽と汗と風の夏、そして夏の冒険、父と『ノルウェイの森』を巡る冒険。坂道を下りながら奈々子は叫びたい衝動を必死に抑えた。はじめて自分に正直に生きているような気がした。

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