【長編小説】父を燃やす 7-2

数日後、真治は雨宮雪子の個展にでかけた。

なぜそこにいくのか、例えば妻にそう聞かれたとしたら、真治は本当の自分の気持ちを伝えることができなかった。自分の中に生まれた、いつかはあったかもしれない感情の揺れを、正確に理解したい。

しかしその揺れは言葉にしたところで妻には理解されることはないと感じた。妻だけではない、他の誰にもそれを理解することはできない、そう感じた。

自分に消化しきれない感情があるとは思わなかった。すべては自分でコントロールできるものだった。感情にしろ、現実にしろ、自分自身にしろ。

千葉と会ったときから心のなかでなにかがうずいていた。雨宮雪子の個展のチラシを見たときからその疼きが激しく流動していた。それは真治がいつからか心の奥にしまい込んでいたものだった。

それを抉り出す必要はない、理性ではそう結論がでていた。しかし、胸の奥で渦巻くなにものかが真治を動かしていた。真治はそのなにものかにつき動かされて雨宮雪子の個展にでかけた。

千葉のギャラリーは渋谷の外れにあった。真治がそこを訪れると千葉が刻印されたかのような笑顔で迎えてくれた。

「連絡はしなかったはずですが」

「彼女の個展にはいつもいるんです。彼女の代わりに私が作品の説明をしなければならないもので」

「彼女は?」

「彼女は作品をつくっています。宣伝は彼女の仕事ではないのです」

千葉はそう言うと真治をギャラリーの中へと導いた。ギャラリーはたいした大きさではなかった。展示室は5×6mの四角い部屋で、コンクリート打ちっぱなし、作品にあてられた照明がぼんやりと光っていた。真治は千葉の案内に従いながら雨宮雪子の作品を一つひとつ眺めていった。

「これは彼女の作品と呼べるもののうちで最も古いものです」

千葉が指さすその先には一人の少女が描かれた絵があった。漫画のようにデフォルメされたおかっぱ頭の少女の背景は多数の写真で彩られていた。

「背後にあるのは彼女のお母さんとおばあさんの写真です」

着物を着た女性の白黒の写真。ディズニーランドを背景とした若い女性の写真。

「彼女によれば」

千葉は柔らかな笑みを浮かべ真治を見つめる。

「世代を表現したようです。祖母から母に受け継がれ、自分へと至る時間の流れを作品に込めたと。単純にそれだけを描いた作品、彼女はそう言います」

真治は千葉の言葉を聞きながら作品を眺める。

「しかし」

千葉は真治の視線を追うように雨宮雪子の作品に視線を向ける。

「真ん中に描かれた彼女自身の顔を見てください」

そこには歪んだ少女の顔があった。

「彼女自身はそれを認めないかもしれないけれど、ここには彼女の内面の葛藤があります。時間によって受け継がれる母と娘の関係、それをこの少女は表しているのです。明るい色彩は明らかにポップアートのそれを意識しています。自分の身の回りにある風景を表すと自然とこのような色彩になった、彼女はそう言いました。彼女のなかにある色彩はこの渋谷に代表されるような明るくポップなそれです。しかしそこに彼女の祖母や母が影を落とします。私たちの生活にアメリカの影が映し出されていると言われたのはいつの時代でしょうか。彼女にアメリカの影はありません。彼女の景色は全てアメリカと変わりがないのです。その彼女の景色にアメリカの影を抱えた祖母や母がいるのです。彼女たちはアメリカの影を恐れはしません。完全にアメリカナイズされた今の日本こそが彼女たちの風景なのです。彼女を脅かすものがあるとすればそれはアメリカの影におびえながらも伝統を引きずる祖母や母たちなのです」

真治は千葉の言葉を一つひとつ吟味しながら雨宮雪子の作品を眺めた。そこに含まれる概念を頭で理解しようと努めたが、何一つ心を震わせなかった。そこにあるのはポップの残りかすでしかなかった。それをアメリカの影と呼ぼうが伝統的日本の影と呼ぼうが関係なかった。ただのポップの残りかす。

真治は千葉に会ったときの心の揺れが作品を前にした自分にないことに安心した。

「概念というものはアートに必要なのでしょうか」

真治は作品から目をはなし、千葉に尋ねた。

「少なくとも世界に作品を売り出すためには必要になるでしょう。世界の中で自分がどういった位置に立ち、その位置からどう表現をしているか、それが問われることはあると思います。世界芸術に組み込まれるためにはそれだけの概念が必要です。たとえば彼女がアメリカの影から反転した日本の影におびえている作品をつくるとき、それが指し示す概念が必要となります。戦争を体験した日本人がそのトラウマを芸術としてどう表現してきたかを踏まえたうえで、彼女の作品が歴史にどう位置づけられるか、それを言葉として表すことではじめて世界のなかに彼女の表現が受け入れられる。敗戦国としての日本の文脈を世界に接続するんです」

真治は千葉のあとに従いながらいくつかの作品を見て回った。千葉が作品を解説すればするほど、それはただの記号の集積にしか見えなかった。

どこからか記号を集めてきてそれを組み合わせて貼り付ける。その組み合わせ方になにかしらの意図があるのだとしても結局は空々しい記号であることを免れていない。その空々しさこそが現代アートだと言われれば「はい、そうですか」と言うが、そこには真治の心を震わせたあの揺れは存在していなかった。

それはそれで構わない、真治は心の中でそう呟いた。

「これは彼女がこの個展にあわせた描いた作品です」

真治は千葉の言葉にうんざりしながらそれに視線を向けた。それは和式の便器の絵だった。真っ白なキャンバスの真ん中に和式の便器が描かれている。光沢のある便器の脇には真っ赤に染まったナプキンが無造作に置かれている。

「この作品は」

千葉が話しはじめたとき、真治は胸の奥が微かに痛むのを感じた。その痛みは徐々に大きくなり、振動となって心を揺さぶりはじめた。ナプキンの赤が心を刺激したのか、そう思い赤を凝視するがそこに振動の源はなかった。では便器か?しかし便器にもなんの衝撃はなかった。真治は自分の心が動き出した原因をキャンバスのなかから探し出そうとその作品を必死に見つめた。

「ナプキンの赤は」

千葉の言葉が耳を通り過ぎていく。真治は他の作品になかったこの絵だけが持つ吸引力に自身の目を従わせた。目は自然と吸い込まれる場所へと視線を向ける。そして真治の瞳に映ったのは真っ暗な闇だった。便器の中からのぞく真っ暗な闇。そこに塗り込まれた黒は真治が今まで見たことのない色だった。誰もそこを覗き込まずにはいられない闇、黒。真治はその黒に吸い込まれていった。

「彼女の中の得体のしれないものが・・・」

うっすらと意識に流れる千葉の言葉が闇から真治を引き離す。真治は背中に冷たい汗を感じながらこの絵を買うことを決めた。

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