【新連載】真夜中の森を歩く 5-3

父が再婚をした。痩せ細ったどこか鳥を連想させる女だった。女は三歳の男の子を連れていた。その男の子も女とよく似て細い身体をしていた。

女と男の子はミツロウと同じ家で生活をはじめた。女はミツロウに気を使っているのか妙に卑屈な態度をとっていた。男の子も子供にしてはおとなしく、常に母親の顔色を窺っていた。決してミツロウには近づこうとしなかった。

ミツロウはそんな新しく母になった女と弟になった子供に嫌悪を覚え、なるべく無視するようにした。父もミツロウにその女と仲良くするようにと促すようなことはなく、むしろミツロウがその女と子供に関わらないでいてほしい様子だった。父は酔ってもその女を殴ることはなく、むしろ女が居心地悪くならないように細心の注意を払っていた。

ミツロウは家にいても決して心が休まらなかった。女と男の子を見るたびに小さな怒りが胸に淀んでいるように感じた。それはしだいに大きくなり、いつか爆発してとんでもないことになる気がした。

ミツロウはなるべく家から離れるようにした。平日は仕事をし、外で夕飯を食べ、近くの銭湯に行き、帰るとすぐに寝た。休日もほとんどナナちゃんと過ごし、ナナちゃんの都合が悪いときには教会に入り浸った。前田さんもミツロウの父の再婚について心配をしてくれ、それでも新しく母になった女と弟になった男の子はミツロウの家族なのだからと優しく諭してくれた。

ミツロウはその言葉をなるべく受け入れようとしたが、頭ではわかっていても実際に女と男の子の顔を見ると胸に淀んでいる怒りがふつふつと燃えはじめるのを抑えることはできなかった。それは情報として頭で理解する種類のものではなく、感情の問題だった。

感情はミツロウがどんなに抑えようとしても不意に思考の中に入り込み、一度その感情が浮かぶとどこまでも膨張していく。膨張し、拡張していく感情は今まで平穏に流れていた意識を洪水のように飲み込み、ミツロウの身体にまでその影響を与えた。身体は熱を持ち、暴力の衝動に支配された。

ミツロウはその暴力衝動を女や男の子に向けないように、日々の仕事に打ち込んだ。燃えたぎるような身体の疼きに突き動かされるようにケーブルを担ぎ、階段を上った。強い日差しが水分を奪い身体が渇いていくのがわかった。叩きつけるような雨が作業着を濡らし、その重さに身体が疲労してくのがわかった。身体は熱を持ち、そして熱を放出する。身体には痛みがあり、疲労があった。全てが身体だった。身体こそが自分だと思えた。

思考や感情は身体を酷使することでその存在を軽くすることができ、身体を酷使することは快感だった。疲労の中で眠りにつくこと、夢も見ずに翌朝を迎えること、そしてまた身体を酷使すること。ミツロウは自分が一つの機械になったように感じた。自分が普段使っているニッパーやレンチやインパクトドライバーのような一つの機能を持った機械だと。

ケーブルを持ち上げ、それを上の階に持っていく機械。腕にケーブルを通し、それを肩で担ぐ。足腰に力を入れ、膝を伸ばす。安全靴で覆われた足で一歩一歩階段を上る。体の各部分が相互に関連し合い、ケーブルを運ぶという一つの機能を果たす。

それは機械であり道具だった。誰かによって作られたある役割を果たす道具。

自分が機械であり道具であるという考えにミツロウは満足だった。自分がなにかの役割を持っていること、それを作ったのが誰であれ、自分で自分の役割を考える必要がないことは楽だった。なにも考えずにただひたすら与えられた道具としての役割を果たすこと、身体を機械と化すこと、そうすることでなんのためにそこにいなければいけないのかわからない家のことを考えずに済んだ。ミツロウにとって仕事が全てであり、仕事以外の時間はあまりに複雑で不愉快だった。

黙々と仕事に励むミツロウの姿は柴田夫妻を安堵させた。すぐに辞めてしまうのではないかという疑念を持って受け入れたミツロウが遅刻も欠勤もすることなく毎日与えられた仕事をこなしている。文句を言うこともなく、むしろ嬉々として仕事に励んでいるその姿は未成年ながらも頼もしさを感じさせた。

その評価は前田さんの耳にも届いた。前田さんはミツロウが打ち込めるものを見つけたことがなによりも嬉しかった。家庭の問題に振り回されていた彼が自立への道を少しずつ歩みだしている、それが柴田夫婦の話から感じることができた。

ここから彼の人生はきっと良い方へ転がっていく、一人前の電気工となり、結婚し、子を持ち、そして幸せな家庭を築く、前田さんはミツロウの今後の人生を希望を持って描くことができた。それは前田さんにとっての喜びであり、神の恩恵が紛れもなく存在していることの証明だった。

ミツロウの母の敬虔な祈りが神の元に届き、神がミツロウを禍から遠ざけ、幸福への道へ誘ってくれている、前田さんは改めて神の寛容さと愛に感謝し、毎日の祈りを一層強く念じた。

仕事によって煩わしい意識の流れから解放されたミツロウだったが、休日にふと暇になると影のようにそれが心の奥に淀んでいるのが感じられた。ファミレスでの一件以来、ナナちゃんと秘密についての話をすることはなくなったが、お互いどこかそのことを意識している様子でなにかもやもやとしたものが二人を覆っていた。

ナナちゃんは相変わらず明るく笑っていたが、それでもその振る舞いもどこか影が差しているようにミツロウには感じられた。

ナナちゃんのメールから彼女の秘密がどんなものか察することはできなかったが、あの時の泣き方は尋常ではなかったとミツロウは考えた。

それは暗闇の奥から響いてくる深い深い悲しみだった。その内容がなんであれ、ミツロウはその深い悲しみに共感できるような気がした。それはあまりにも暗くドロドロした情念が纏わりつくような人間の根源にある悲しみだった。

自分たちがなぜそんなものを抱えて生きていかなければいけないのか、ミツロウはナナちゃんの笑顔を見るたびにひどい理不尽な仕打ちを受けているような気分になった。どうにかしてその荷物を降ろしたいと思った。そしてナナちゃんを苦しめている悲しみから彼女を救いだしたいと強く感じるようになった。

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