【新連載】真夜中の森を歩く 8-4
部屋の明かりは全て消えていた。デジタルの時計が午前3時35分を示していた。ユキはまだ帰らない。ミツロウは毛布を頭から被り、一人震えていた。
あの男がどうなったのか、それが気になった。高橋と黒田はそれぞれ家へ帰り、朝になったら連絡をとりあうことになっていた。時間がまるで止まっているようだった。
ミツロウは毛布の中で動かなくなった男の顔を思い出し、それを振り払っては時計を見た。寒くないのに身体の震えは止まらなかった。キッチンにある冷蔵庫の音が妙に気になった。はやくユキが帰ってくることを祈った。そして肉の中でぐっすりと眠りたかった。
午後4時16分。玄関で鍵を開ける音がした。ドアが開き、照明の明かりが目に入った。ユキは気怠そうに寝室に入ると姿見の横にある小さな椅子に腰を下ろした。そして一つ大きなため息を吐くとバッグを床に放り投げた。そしてポケットから煙草を取出し、静かに吸いはじめた。
ミツロウはその様子を毛布の隙間から黙って眺めていた。暗い寝室に玄関の明かりがうっすらと差し込んでいる。煙草の煙がその明かりの前をゆっくりと流れていく。
「ユキ」
ミツロウが小さく名前を呼ぶとユキはびくっと身体を震わせた。
「なに、あんた起きてるの?びっくりするじゃない、急に呼ぶから」
ユキはそう言うと立ち上がって電気を点けた。ミツロウの視界にユキの姿が鮮明に映る。
「毛布被って座ってなに?具合悪いの?」
煙を吐き出しながらミツロウの姿を見つめるユキの顔はどこか疲れていた。ミツロウの中の罪の意識がじわりと蘇ってくる。
「どうしよう、どうしよう」
「なによあんた、子供みたいに」
ユキはミツロウの被っている毛布を剥ぎとった。ミツロウは無防備な自分の身体を抱きしめるように両手で身体を覆った。
「あんた、震えてるじゃない」
ユキの手がミツロウの額に触れる。
「熱はないみたいだけど」
額に置かれた手が離れると同時にミツロウの目から涙が零れ落ちた。
「どうしよう、あいつ、オレ、死んだんじゃないか、オレ、殺したんじゃない」
「なに?どうしたの?」
ミツロウはユキに抱きついた。温かな肉の感触が気持ちを少し落ち着かせた。
「高橋が殴って、それで黒田と喧嘩になって、それで蹴ったら、止められなくて、そしたらあいつ、動かなくなって」
ユキはミツロウの支離滅裂な言葉からなにか悪いことが起きたことを理解した。そして目の前の男が自分よりも20歳近く年の離れた子供であることを改めて認識した抱きしめる両手に力を入れるミツロウを振り払い、距離をとる。
「だから言ったでしょ。危ないことするなって。なに?喧嘩したの?それで?」
「相手が動かなくなって、オレと高橋と黒田で蹴ってたら」
「それで?」
「怖くて、それで逃げて。どうしよう」
煙草の嫌なにおいがした。ミツロウは父親の顔を思い出した。胸に小さな怒りが淀んでいるのを感じた。
「どうしようじゃないわよ。あんたもう大人でしょ、なにやってんのよ。え?それでどうするの?相手はどうなったの?」
「わからない」
胸に淀んでいる怒りが少しずつ膨れ上がっていく。それは不安を飲み込み、手や腹や頭に拡散していった。
「わからないって。なに、その人死んじゃったかもしれないの?どうするのよ?」
ユキは力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。前髪が垂れ顔を隠す。その不幸を背負いこんだ女の姿に拡散した怒りが再び胸に凝縮し、そして爆発した。震えていた身体が少しずつ熱を帯びはじめ、頭から言葉が消え去った。ミツロウは立ち上がりユキを見下ろした。
「どうするのよ、これから。もう、どうするの」
泣きだしたユキが汚らしいものに見えた。自分の存在を脅かす邪魔なものに見えた。ミツロウは拳を握り、ユキの左頬を殴った。ユキの身体が大きく揺れる。
「なにするのよ」
一つの暴力はミツロウの身体を怒りで支配し、次の暴力へと誘った。ミツロウは蹲っているユキを何度も踏みつけた。踏みつけながらまるであの男のようだと思った。
ユキは必死に腹を押さえながら暴力が収まるのをじっと耐えていた。全てに耐え、受け入れる女。ミツロウは暴力に酔いしれた。
ミツロウが踏みつけるのをやめるとユキは部屋の隅に這っていった。化粧品の入った戸棚から鋏を取出し、ミツロウに向けた。
「こないで、私に近寄らないで」
ユキは荒い息を吐きながら、鋏を握っていない方の手を腹に置いた。ミツロウはその姿を真っ直ぐ見つめた。
「あんたね、あんた、父親になるのよ」
「は?」
「だから、子供がいるの。ここに」
ユキは腹に置いた手をゆっくりと動かした。ミツロウはユキの発した言葉の意味が上手く把握できなかった。ユキの腹を眺め、それから天井に視線を向けた。天井には黒い染みのようなものがついており、そんなものがあったことに今まで気が付かなかったなとミツロウは思った。
「私を殴ると、この子死ぬよ。いいの?もう1人殺すんだよ、あんたは」
「お前はそいつを生むのか?」
「当り前よ、あんたなんかいなくても私が育てるわよ」
ミツロウは視線をユキに戻した。身体から力が抜けていくのがわかった。どうしようもない寂しさが怒りにとってかわった。胸が苦しかった。
「オレは、オレにはわかるんだ」
「なによ?」
ユキは持っている鋏をミツロウに向けたままバッグから携帯電話を取り出した。ミツロウは立っているのがつらく布団の上に座り込んだ。
「これ以上殴ったら警察呼ぶからね、いい?」
「お前の、オレの、その子供は、やめよう。そいつが生れたらオレはお前を殴って、それでお前は死ぬんだ、そいつを残して。そして、それでその子はお前がいなくて寂しくて、それでまた他の女を殴るんだ。オレはたぶんそれを遠くから眺めてるんだ。あいつがオレじゃなくて良かったって思いながら」
ミツロウは混乱した頭から漏れてくる言葉をただ口にした。言葉はミツロウが心の深く深くに押し込めた罪の意識を呼び覚ました。目の前にあの光景が広がる。あの悪夢がやってくる。ミツロウは声を出して泣きだした。
「あれが、あれがくるんだ。あの夢が。オレは母さんを犯すんだ、首を絞めながら。首を絞めて、それでトイレの匂いがして、そして母さんは死んで、それで勃起して。オレはずっと勃起したまま、それで目が覚めて。オレはいつも夢精してるんだ。白いものでベタベタになるんだ。身体に罪がこびりついてるんだ。あの夢は、あの夢は、もう嫌だ」
幼児のように泣きじゃくるミツロウにユキは憐れみの目を向けた。鋏を床に置きゆっくりと立ち上がる。身体のあちこちを手で触りながら傷を確かめ、そして携帯電話をバッグにしまった。
「あんた、この家からでてきなよ。ヨシくんたちと警察行きな。そして私の前にもう姿を見せないで。私の子はあんたみたいになんない。私も死なない。あんたの業はあんたが背負いな。私には関係ない。私は私で生きていくから」
窓から日の光が差しこんでいた。鳥が気忙しげに鳴き声を上げていた。ユキが窓を開けると風がカーテンを揺らした。薄いカーテンの奥にユキの姿が映る。ミツロウはその姿を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。
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