【長編小説】父を燃やす 7-1

「株式会社GOLD INVOCATION」は着実に成長し、経営基盤も安定していった。真治は組織のトップとして適格な判断を下し、社員を適正に遇した。売上が伸び、人が増えていった。

家庭でも真治は「父」になった。妻は二人の子供を生み、姉を日向、弟を真人と名付けた。妻は二人を有名な私立幼稚園に通わせ、日向にはピアノを、真人には水泳を習わせた。そして自分は料理教室に通い、オーガニック食品に凝るようになった。

母はときおり訪れる孫との交流を楽しみ、そして普段は地域の集まりに参加してできた友人と食事会や旅行をして時間を過ごしていた。

陽菜は真治から紹介された「株式会社GOLD INVOCATION」の若い営業職の男性と結婚した。いつも高い営業成績をあげるその男性社員を真治は信頼していた。陽菜も結婚とともに美容師の仕事をやめ、都内にマンションを買い、そこで専業主婦となった。

真治はそういった自分の家族の様子を眺め、自分の成功を確かめた。すべては思い通りの結果になった。金と地位、そして家族。すべてを自分の力によって手に入れ、すべてが自分の管理下にある。妻や子供たちから「お父さん」と呼ばれるとき、真治は母に刷り込まれた命令を達成できたような気がした。「おれは父のようにはならなかった」

その男は順風満帆の真治の人生に音もなく滑り込んできた。その男と会ったのは真治が若手経営者の集まるセミナーでいつも通り名刺交換をしているときだった。

「私も少しご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか」

丁寧な言葉遣いで近づいてくるその男は真治に不信の念を抱かせた。

外見が完璧すぎる、真治はそう思った。平均的な身長である真治が見上げるほどの身長、無駄な肉がついてない身体のフォルム、絵画的な顔のつくりと女性的な印象を与える微笑。服装にも気を使っていることが一目でわかった。しっかりとした生地のスーツは細い男の身体にピタリと重なり、余るところも足りないところもなかった。シャツに皺一つなく、ネクタイの結び目もまるで芸術作品のようだった。その男は現実から少しずれた空間に存在しているように真治には思えた。その感覚が真治を落ち着かなくさせた。

「私、こういうものです」

男はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、真治に手渡した。優雅な名刺交換の仕方だった。

真治は男の現実離れした身のこなしに感心しながら渡された名刺を眺めた。社名も肩書もなく電話番号と住所、そして大きな文字で「千葉幸太郎」とだけ記されていた。千葉は真治の名刺を受け取りそれをしばらく見つめるとにっこりと笑った。

「御社のお名前はよく聞きます。若手の経営者のなかでは御社は羨望の的になっています」

真治は千葉の言葉に曖昧に頷いた。相手がいったい何者なのかうまくつかめなかった。いつかの自分と同じこれからビジネスでのし上がろうと考える野心のある起業家なのだろうか。それにしてはあまりにも洗練されすぎている。「持たざる者」が持つ荒々しいエネルギーが千葉にはなかった。すでになにかを得た人間の余裕がそこに感じられた。

「あなたはどういったお仕事をされているのですか」

真治は相手に負けない余裕を表情に湛えながら千葉に尋ねた。

「これは失礼しました。私は美術品を主に売ったり買ったりしながら、こつこつと小銭を稼いでいるものです。いくつかのギャラリーで主に若い芸術家の作品を紹介してます」

「ああ、ギャラリストですか」

真治がつまらなそうにそう言うと。千葉は愉快そうに口を曲げた。

「そうです、いわゆるギャラリストです。若い才能のある芸術家を発掘して、個展を開いて、それをコレクターに売る。安く買って高く売る。御社とおなじようなものです」

千葉の言葉は真治の気分を害した。商売が同じだと言われたことよりも「芸術家」という言葉の響きが心の奥のなにかを揺り動かした。

「お一人でされているんですか?」

「ええ、ほとんど一人です。大きな個展を開くときには知り合いに協力してもらいます。こう見えて知り合いは多いんです。持ちつ持たれつ、それが大事な世界です」

「儲かりますか?」

「まあ、死なない程度には。御社ほどには儲からない」

千葉はそう言うと楽しそうに笑った。真治はまた自分の心が揺れ動くのを感じた。千葉は髪をかきあげると一度遠くを眺め、それから真治に視線を戻した。

「あなたは芸術に興味がありますか?」

「いや、芸術は門外漢で。なかなか興味深い分野だとは思いますが、私には高尚過ぎます。私はただの株屋ですから」

「とんでもない。あなたは良いものと悪いものを見分ける目があるんですよ。だから御社もここまで大きくなれたのでしょう。審美眼は大切です。特に私たちの業界ではそれがないと生き残っていけないんです。それさえあればいいくらいです。あとはなんとかなります」

「いえいえ、私に審美眼なんてものはないですよ。ビジネスの場合は必要とされるかどうかですから、需要が見込めるか。それは社会の情勢と経済の動きを見ていればある程度は計算できるんです。芸術は、それこそ審美眼ですね。なにが美であるか。それはセンスではないですか。才能でしょう?」

千葉は真治の話を聞き終わると、さきほど見ていた方向にもう一度視線を移した。真治がその視線を追うと、そこには赤いドレスを着た女性が立っていた。

「彼女は若い芸術家なんです」

千葉は少し照れ臭そうに真治に言った。そこには身内を紹介するときのような親密さと恥ずかしさの入り混じった感情が含まれていた。

「奥様ですか?」

「いえ、現在の仕事上のパートナーです。特別な関係ではないです。でも、そうですね、あなたは先ほど才能と仰いましたね。ギャラリストには才能は必要ありません。才能を見分ける嗅覚があればいいんです。これはもう恋と一緒ですね。その作品に恋をするかどうか。私は彼女の作品に恋をしたんです」

「恋、ですか」

「そうです、恋です。彼女の作品には彼女の中にある得体のしれないなにかが含まれているんです。その得体のしれないなにかが私の心をとらえて離さないんです。寝ても覚めても彼女の作品のことしか考えられない。これはもう恋でしょ?」

千葉は真治に視線を戻すとにっこりと笑った。

「私は主に現代アートを取り扱っています。あなたは現代アートをご存知ですか?」

真治は大袈裟に首をふって千葉の言葉に答えた。

「現代アートは概念操作です。芸術はそもそもヨーロッパの文化ですから、ヨーロッパの歴史に深く根差したものなんです。正当な芸術とはヨーロッパの正当な歴史です。現代アートはその正当さに意義を申し立てます。特に非ヨーロッパ圏の芸術家はその正当さへの反抗として自らの国の歴史を対置させるんです。そこに新たな文脈ができる。アメリカは抽象表現主義を経て大量消費社会的な文脈をアートに持ち込み、そして現代アートを確立させた。歴史がないことを逆手にとることでアートの概念を変えたのです。そして今はアジアなど非欧米圏のアーティストがアメリカ発の現代アートに新しい概念を持ち込もうと躍起になっている。元あった概念に繋がるようにしながら新しい概念を打ち立てる。概念があってはじめてアートは理解される。オリエンタリズムやスーパーフラットみたいにね。だからアーティストはクレバーでなければならない。ただ上手につくる時代ではないんです。現在のアートがどんな概念に価値を置いているのかを把握し、そしてそこに繋がるような自分の概念を創造する。自らの国籍、人種、性別、宗教、歴史の中から新しい概念をつくりだすんです。それを現在の価値の中に接続する。その概念が受け入れられるか無視されるかは宣伝と運です。ギャラリストは宣伝の部分でアーティストに奉仕する。だから、どのアーティストを選ぶかを見極めなければならない。彼らの作り出した概念をしっかりと理解しなければいけない。その概念に力があるかを見極めるのは、恋をするかどうかなんです」

千葉は一度そこで話を区切ると赤いドレスの女性に向かって手をふった。女性は千葉の存在を認めるとゆっくりとこちらにやってきた。

「現代アートで難しいのは」

千葉は赤いドレスの女性に視線を向けたまま話を続ける。

「新しい概念があちこちからどんどんと湧き出てくることです。その湧き出す多種多様な概念のどれが次の価値を作り出すのか、それを見極めることは本当に難しい。アーティストの一人ひとりは独自のアイデンティティを作品にこめてきます。それが価値を持つかはいわゆる賭けです。リスクを負ってまで賭けたくなる人物はそう簡単にはでてこない。彼女はそんな稀有な存在の一人です」

赤いドレスの女性は千葉の前まで来るとにっこりと笑った。千葉はその笑顔に同じような笑みで返し、女性の腰に手を回して真治に紹介した。

「今、私が恋している女性です」

「私の作品にでしょ」

赤いドレスの女性はいたずらっぽい表情で千葉を見つめると、くるりとドレスを回し、真治に挨拶をした。

「雨宮雪子です」

「吉田真治です」

真治が名刺を渡すと雨宮雪子は手を差し出して握手を求めた。

「すいません、私、名刺持ってなくて。駆け出しの芸術家なんです」

「とても独創的な作品をつくるそうで。千葉さんが恋をするほどの」

真治がそう言うと雨宮雪子は照れ臭そうに笑った。その笑顔には幼さがにじみ出ていた。

「私の作品を褒めてくれるのは千葉さんだけなんです。まだ一つも売れたことがなくて」

雨宮雪子が悲しそうにそう言うと、千葉が雨宮雪子の頭を静かになでた。

「彼女は露出が足りないだけです。彼女の作品がもっと多くの人の目に触れることになれば自然と売れるようになる。きみが自分の作品がもつ意味を自覚し、意図的になりさえすれば作品はもっと良くなるし、有名にもなれる、間違いないよ」

千葉は再び雨宮雪子の腰に手を回す。雨宮雪子は左手にぶら下げていたハンドバックからごそごそと紙をとりだすと真治に差し出す。

「私、今度個展をやるんです。是非、見に来てください」

しわくちゃになった紙には個展の案内と地図が書かれていた。

「私からも是非お願いしたいです。彼女の作品を見ればきっと私の言っている意味がわかると思います」

真治が紙を受け取ると千葉は満足そうに微笑んだ。雨宮雪子は千葉を見上げ「うんうん」と大げさに頷いている。

真治はそんな二人の様子をぼんやりと眺めた。千葉に会ったときに生まれた心の揺れ動きは消えずに淀んでいる。しばらく感じたことのなかったそれをどう処理していいか真治にはわからなかった。自分の与り知らないところでなにかが動きだしていくような感触があった。

「是非、お伺いさせていただきます」

真治は二人に微笑みかけながら個展の案内用紙を強く握りしめた。

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