【新連載】真夜中の森を歩く 8-3

居酒屋での口論以来、吉川は姿を見せなくなった。黒田は「あいつは臆病者だ」と言いながら高橋、ミツロウと共に恋人奪還計画を急いだ。

吉川が離脱したことで計画は淀みなく進むようになった。誰も黒田の言うことに反対するものはなく、高橋は計画の正当さよりも暴力を振るう機会がやってくるのを心待ちにしていた。ミツロウも相手が完全に悪であることを疑うことはなく、黒田からもたらされる情報にその都度憤慨していた。

黒田は相変わらず恋人の新しい男の周りに張り付き、男がどのような生活スタイルをしているのかをしつこく調べた。

男は3階建てのアパートに1人で暮らしていた。月曜、水曜、木曜には1時限目から授業があり、午前8時30分にアパートを出る。火曜、金曜は二時限目からの授業だが、それでも午前9時には出発している。大学の講義を終えるとそのままサークル活動へと向かい、そこで午後6時くらいまで過ごす。その後、友人と飲みに行ったりアルバイトをしたりで、平均するとだいたい午後10時の帰宅だった。

明るく活発な男で、交友関係も広く、男女隔てなく友人がいた。常に誰かと行動を共にしており、それは男が誰かにすり寄っていくというよりは、自然と友人が集まってくるという感じだった。黒田の恋人とも週に何度か会って食事をしたり、カラオケに行ったりしているようだったが、今のところは恋人という関係ではないようだった。

「全うなやつだよ」黒田は皮肉を含んだ口調でそう言った。

黒田が言うにはその男は日教組の教えを忠実に守って育ったような男で、戦後民主主義教育に染まったある意味全うで素直な人間ということだった。だからこそその男に埋め込まれた虚妄を取り払い、目を覚まさせてやらなければならない、ましてはその虚妄を自分の恋人にまで洗脳させるわけにはいかない、黒田は意地の悪い笑みを浮かべながら高橋、ミツロウにそう語った。その口調や身振りはまるで映画俳優のようだった。

黒田は探偵と革命家を気取るうちに少しずつ行動が劇的になっていった。探偵、あるいは革命家を演じる自分に酔いはじめ、身振りや口調はいよいよ大袈裟になっていった。

真ん中で分けた髪と地味な服装は相変わらずだが、映画やネット動画で観た活動家を演じることで自分が彼らと同じ英雄的存在であることを自分自身で信じはじめていた。

嫌韓的な議論を仲間と他愛もなく言いあっていた当初のようなシニカルさは次第に薄れ、行動することで社会変革をもたらすんだというヒロイズムが生れはじめていた。

その自己愛的な感情は高橋、ミツロウにも感染した。単純な論理、エモーショナルな言動は高橋、ミツロウにもよく馴染み、青年期の鬱屈した自意識との相性もよかった。

三人は密かに計画を立て、暗号でやりとりをし、成功を夢見て熱の入った議論をした。そして計画実行の期日を決め、胸を躍らせながらその日が来るのを待った。

計画はいたって単純だった。その男が黒田の恋人と行動を共にする日を選び、彼らの後をつけ、そして人気のないところで襲うというものだった。

男が黒田の恋人と会う日は黒田が大学内の様々な人脈を使って調べ上げていた。高橋とミツロウは黒田の指示に従い、駅前の居酒屋で酒を飲んでいた。計画に支障をきたさぬよう、酒量は抑え、そこにやってくるはずの男と女を待った。

午後7時15分に対象者はやってきた。楽しげに会話をしながら席に着く彼らはまるで恋人同士のようだった。高橋、ミツロウは小さな声で会話をしながらその様子を注意深く窺った。黒田は恋人に顔を見られぬよう他の場所で待機をしていた。

男と黒田の恋人はよく喋り、よく食べ、よく飲んでいた。笑い声が絶えなかった。男の女性慣れした雰囲気や言動が高橋とミツロウの癇に障った。はやくあいつをぶん殴ってやりたい、二人は小さな声で話し笑いながら湧き上がってくる暴力衝動を慰めた。

男と黒田の恋人は午後9時30分にその居酒屋を後にした。高橋とミツロウは二人が会計を済ませるとすぐに席に立ち、一万円札をレジにいた男性店員に渡すと「釣りはいらない」と言って二人を追った。

ゆっくりと歩く男女を後ろから眺めながら高橋は店員に言った台詞がまるで昔の漫画かドラマみたいだと言って笑った。ミツロウはそれに対して「いや、これは現実だよ、完全な現実だ」と答え、目を鋭くさせた。

対象者の二人はくっつくでも離れるでもなく適当な距離をとって歩いていた。男が冗談を言ったのか女のよく通る笑い声が響いた。高橋は黒田にメールを送り、現在の居場所を知らせた。黒田からは「きっと近くの公園を通るはずだから、計画はそこで実行する」との返信があった。

黒田の言う通り、二人は真っ暗な公園の中に入っていった。外灯が不規則に置かれる公園に女の笑い声が流れる。芝生が敷きつめられた広場の前の二つ並んでベンチの一つに二人は座った。女の笑い声はまだ続いている。高橋とミツロウは桜の木の影に隠れて黒田が来るのを待った。

5分ほどして黒田が合流すると三人は計画の成功を祈ってお互いの手を重ねた。ミツロウは心臓が高く鼓動しているのを感じた。顔が火照り、足が微かに震えていた。高橋と黒田の荒い息が鼻先を刺激した。二人の熱気を感じた。

女の笑い声が止まると三人は桜の木から飛び出し、男と黒田の恋人の座っているベンチの前に並んだ。女の叫び声がした。黒田は恋人の手を掴むとベンチから引き離し、ミツロウに渡した。ミツロウは女が逃げられないよう後ろから抱きかかえ口を手で押さえた。

黒田が一人ベンチに座っている男に聞く。

「お前は在日か?」

男はなにも答えなかった。黒田はもう一度同じ質問をした。男は身じろぎもせず「違う」と答えた。黒田が続けて聞く。

「お前は反日サヨクか?」

男は確かめるように黒田を見、そして押さえつけられている女を見た。

「お前は反日サヨクか?」

黒田の口調が鋭くなる。男は「よく意味がわからない」と言った。その言葉に黒田が笑う。そして高橋に視線を向け、なにか合図をしたあともう一度同じ質問をした。男は「おまえら、なんなんだよ」と語気を強めた。

突然、高橋の右手が男の腹に伸びた。ミツロウの手から女の声が漏れる。男は少し苦しんだあとベンチから立ち上がった。黒田が質問を続ける。

「在日への生活保護の優遇をどう思う?」

男は「知らない」と答える。高橋の右手が腹を突く。

「朝鮮学校への補助金については?」

「知らない」

「在日への特別永住資格については?」

「知らない」

「従軍慰安婦については?」

「知らない」

高橋に殴られる度に男の声が沈んでいく。ミツロウに抑えられた女は立っていることができず、何度も座りこもうとする。ミツロウはその度に女の身体を持ち上げた。女の髪から甘いにおいがした。

高橋が5回目の殴打を男に加えると男はベンチにうなだれるように身体をあずけた。黒田はそれを満足そうに見下ろすと「竹島はどこの領土だ?」と質問を投げつけた。男はしばらく黙っていたが急に奇声を発し、黒田に襲いかかった。男の右手が黒田の顔をかすめ、二人はその場に倒れ込んだ。

二人がもみあっているのを上から眺めていた高橋は「助けろよ」という黒田の声で我に返ったように男を上から踏みはじめた。ミツロウも女を放し、そこに参加する。自由になった女はしばらくそれを見つめていたが突然走りだし、闇の中に消えていった。

高橋、ミツロウの助けにより男から解放された黒田は立ち上がって男を蹴りはじめた。黒田、高橋、ミツロウの三人に蹴られている男は亀のように身体を丸め、低い声をずっと漏らしていた。

ミツロウは何度も何度も蹴りつづけているうちに次第に気持ちが冷めてきた。他の2人も同じようだった。三人は蹴るのをやめ、蹲っている男を見下ろした。男は全く動かなかった。呻き声も止まっていた。

高橋がしゃがみこんで男を反転させる。男はぐったりとしたまま地面に転がった。目は閉じられ、身体はピクリともしなかった。遠くからサイレンの音が聞こえる。黒田、高橋、ミツロウはお互いを見つめ合い、そして転がっている男を見た。

「やばい」

黒田が呟く。高橋は真っ暗な夜空をぼんやりと眺めている。ミツロウは身体から熱が去っていくのを感じた。

「逃げよう」

黒田が二人の背中を叩く。その手の感触が現実なのか夢なのかミツロウにはうまく判断できなかった。

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