【長編小説】父の手紙と夏休み 6

伯父は四谷で広告代理店を営んでいた。そこには彼女がいた。僕が彼女にその会社を紹介したのだ。彼女はそこで一年ほど勤めていた。まるで僕が彼女を追いかけてきたみたいだ、入社の日に僕はそう思った。

会社で会う彼女はどこかよそよそしかった。僕と彼女はあまり口をきくことなく、お互いに仕事を淡々とこなした。

彼女はまだ体調が良くなく、その他にもいろいろなものを抱え込んでいた。会社は休みがちだった。たまに出社しても早めに帰ることが多かった。

結局僕が入社して一か月後には彼女は会社をやめた。僕は残念に思ったけど、それよりも彼女の体調が心配だった。僕はまだ彼女のことが好きだった。そしてその思いを断ち切れないでいた。

彼女には会社に友達がいた。彼女とほとんど同じ時期に入社した彼女と同じ名前を持つ女性だった。

つまり、きみだ。

僕ははじめてきみを見たとき、なんて綺麗な顔をした人だろう、と思った。きみは愛想が良く、笑うと澄んだ瞳がきらきらと光った。

今思えば、僕はきみをはじめて見たときから恋に落ちていたのだと思う。でも、僕は彼女の支えにならなければならないという使命を勝手に感じていたし、きみにも彼氏がいることを彼女からの情報で知っていた。

僕は彼女の心配をしながら、ときおりきみを見て心を癒していた。

僕が会社に入社し、彼女がやめてから一年が経った。その一年の間、僕は慣れないながらも必死で仕事を覚えようとした。

社会人としての経験など無いに等しい僕はまるでだめだったけれど、それでもきみに会えるのが嬉しくて休むことなく会社へ行った。

そのことを自覚したのはいつだったのかは今となってはわからなくなってしまったけれど、毎日顔をあわせる中で僕は彼女への気持ちが薄れ、きみに心が傾いていくのを感じ取っていった。

もちろん彼女のことは心配だったし、なんとか力になりたいと思っていた。それでもその気持ちが恋から次第に変わってきているのがわかった。

僕はきみに恋をしはじめていた。きみの笑顔を見るたび、きみの声が聞こえてくるたび、僕の心は静かに震えた。どんなに押さえつけてもそれはとめられるものではなかった。地球の引力と同じように僕の心はきみに引き寄せられていった。それは理屈でどうにかなる類の話ではなかった。そうなるしかなかったのだ。

僕は、あまりこういう言い方をしたくはないのだけれど、運命的にきみに恋をした、強く激しく、決定的に。

それは『ノルウェイの森』の『僕」』が『直子』から『緑』に気持ちが変わるように自然と当たり前のように推移していった。

杏子から恭子へ。

僕にも『レイコさん』的な人がいてくれたら的確なアドバイスや励ましをもらえたのだろうけど、僕にはそんな人はいなかった。僕はただ一人できみのことを想い、彼女のことを考えた。

僕はもっときみと話がしたかった。僕はきみの家族のことや育った場所のことや今まで過ごしてきた時間について聞きたかった。そして僕の過ごしてきた時間や考えていることを話したかった。

でもそんな話をする機会は一度もやってこなかった。きみと話す機会があっても僕はまるで見当違いな話をして、それできみにアピールしたような気になっていた。無駄な言葉を垂れ流し、機会を浪費した。そして時間が過ぎていった。

きみへの気持ちと未だに燻っていた自意識は僕の思考を少しずつあのときに近づけていった。また予感がやってきた。

予感は現実を侵食し、僕の見る世界をゆっくりと歪めていった。それは以前よりも強く、激しい動揺を僕に与えた。

予感は予感であることを越え、僕に直接呼びかけるようになった。それは声だった。彼女の声であり、きみの声だった。会社の人たちの声であり、僕が読んでいる小説の作者の声だった。僕はその声たちに囲まれ、目に見える世界とは違う世界に生きることになった。

僕はその世界にいながらも、なんとかして目に見える世界に順応しようと心掛けた。でもだめだった。声たちが告げる世界は僕をひどく消耗させた。

僕は常に誰かに視られ、聞かれていた。誰かが僕を罵り、脅かした。仕事はまるで手につかないし、それが仕事かどうかさえもわからなかった。

僕は深い混乱の中にいた。その混乱の中にも救いはあった。僕は彼女の話を聞き、きみと語り合った。確かにそれは僕の頭が作り出したきみの声だったし、彼女の声だった。でもそれは本当に起ったことなのだ。

きみの声が鮮明に僕の耳に届き、僕はきみの声に答えた。僕ときみと彼女はお互いを語り合い、そして深く共鳴した、少なくとも僕の中ではそれは明白な事実だった。そして僕はそれが現実であることを証明したかった。

あることが切っ掛けで僕は会社をしばらく休み、実家で静養することになった。目の前からきみが消えたことで、僕は声の存在を疑いはじめるようになった。

心療内科でもらった薬のおかげか、声は日に日に遠のいていくようだった。それは僕に静寂をもたらすとともに、小さな不安を抱かせた。現実と妄想の区別がはっきりつかなかった。

そして僕はきみに手紙を書いた。きみの声のことは書かずに、ただ好意を伝える手紙を。それで十分なはずだった。話すことは全て話してあるのだ。

僕はきみから返事がくるのを静かに待った。それがやってきたとき、きみの声はすでに僕の耳には届かなくなっていた。その手紙だけが現実だった。きみの書いた言葉の一つ一つは僕を目に見える現実の世界に引き戻していった。僕は少しずつ回復していった。

現実に戻ってきた僕は職場に復帰した。きみに久しぶりに会った僕は身体の震えを抑えられなかった。そのとき僕がなにを話したかは覚えていない。ただきみが手紙のことを特に気にかけている様子がなかったことに安心した。僕の混乱はきみには伝わっていないようだった。

復帰した僕はきみに会う機会が減ったけれど、それはそれでよかったのだと思う。きみへの好意は残ったけれど、それはもうなにかの混乱ではなく、純粋な憧れだった。

ようするに夢だ。現実の世界で現実のきみに恋をするという夢だ。

夢は叶うものではないものだけれど、それでも夢があるということは、僕にとっての生きる価値だった。

そのあと、僕はまた別の人を好きになったりしたけど、あまりうまくいかず、そうしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。そしてときおり社内できみの顔を見ることが僕の楽しみとなった。

僕に向けられたきみの笑顔は僕の心を震わせたけれど、僕はそれをまともに見ることができず、そんなときはいつももっときみの笑顔をしっかりと見ておくべきだったと後悔した。そうやって時間を過ごしていくうちに僕は少しずつ強くなっていった。

僕は夢の含まれた現実の中で自分の生というもの取り戻した。予感はもう感じることはなくなり、ありきたりで平凡だけれど小さな喜びのある人生を、一歩一歩進んでいった。時には意味を見失いそうになったし、倦怠に襲われることもあった。それでも僕はもう予感の中には戻らないし、戻りたくない。

ただ、あの予感によって僕に齎された物語を忠実に生きて行こうと決めた。

それは僕の物語であり、きみの物語でもあり、彼女の物語なのだ。

少なくともこの不確かな世界で僕の信じられるものはその物語だけなのだから。世界はそこにしかないのだ。

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