【新連載】真夜中の森を歩く 1-4

母の手に揺すられミツロウは目を覚ました。椅子の列の真ん中にある通路を男性が歩いていく。黒いスーツを着て、水色のネクタイをしていた。髪には少し白髪が混じっていた。丸いメガネをかけ、小さな十字架を首からかけていた。男性は教壇の前に立つとにっこりと笑った。柔和な顔立ちだった。

「みなさん、こんにちは。牧師の前田です。厳しい冬も終わって、ようやく暖かくなってきましたね。冬にエネルギーを保存して春に一気に花開く。荒涼とした風景が急に色づきはじめる。その鮮やかさにわたしたちは生きている喜びを感じるのでしょうね。それは昔も今も変わりません。この生きる喜びを感じることができること、これこそが神様がわたしたちに与えてくださった大いなる恵みではないでしょうか。

はい、それでは今日のお話ですね。マタイによる福音書の26章、イエスが最高法院で裁判を受ける個所ですね。皆さんはここをお読みになってどのように感じましたか?ひどい、と感じたでしょうか。または無知なるもの、信じることのできないものに憐れみを感じたでしょうか。ねえ、どうでしょう。それともイエスはなぜこれらの人たちに自分を信じさせるよう説得しなかったのかとお思いになるかもしれませんね。

そう、イエスはこのとき黙っていますからね。自分の立場を説明しない。ただ予言をするだけです。彼らはその予言こそが神の冒涜だと言う。彼らにはわからない。イエスが神の子だと言うことが。このあとにも出てきますけど「神の子ならば自分を助けてみろ」とイエスを試すようなことを言う。イエスはただ黙っている。そして侮辱と罵声の中で刑を受ける。

みなさん、預言者とはなんなのでしょう。未来を予言できるのならば未来を変えられるはずだ、そうお思いになる方もいるかもしれません。

これはわたしの考え方です。預言者とは物語を読む人のことです。物語を作る人ではないのです。物語を読んで、その中に生きる人、それが預言者です。

では物語を作る人はだれでしょう。そう、わが父なる神です。イエスは物語を読む、そしてその物語の中で自分の担う役割を理解する、そしてその役割通りに行動する。全ては神のお書きになった物語の一部なのです。その役割を理解して全うできるものが預言者になるのです。決して役割から逃げることはない。

イエスを侮辱した人たちは物語が読めない。イエスが代わりに読んでくれた物語も信じることができない。しかしそういう人たちがいることも物語には書いてある。イエスはなにも言わない。それがイエスに課せられた使命だからです。

ではわたしたちは?わたしたちも神のお作りになった物語を読むことはできません。しかし聖書があります。これには預言者たちが読んだ物語が書いてあります。この物語を読み、理解することは、神の作られた物語に触れることができるということです。確かに神の作られた物語には簡単に触れられません。それは小さな小さな声なのです。その声を耳を澄ましてよーく聞くのです。聖書はそのためにあるのです。

ここでちょっと今の時代に話を戻しましょう。わたしが昨日経験したお話をさせてください。ほんのささいなことなんですけどね、なぜか心に残ったのです。

昨日、一人でふらっと焼き鳥屋に行きましてね、お酒を飲んでいました。牧師が酒飲むのかって言われたら面目ないのですが、わたしなんてやくざな牧師ですからね。

そう、それで静かに一人でお酒を飲んでいました。わたしの他にもお客さんが数名いて、わたしはカウンターで飲んでいたんですが、そのすぐ横に若い男女のグループがいました。男性が4人、女性が1人でどうやらバンドを組んでるメンバーみたいなんです。わたしはその話になんとなく興味をひかれて、お酒を飲みながらぼんやり聞いていたんです。盗み聞きなんて神の罰がくだりますね。

それで彼らがビートルズの話をはじめたのです。ビートルズ、懐かしいですね。こんな若い人たちにも影響を与えているのですから、やはりビートルズは偉大なんですね。

彼らはリンゴスターの話をしていました。わたしはそんなに音楽に明るくないので詳しい話はわからなかったのですが、そのグループの一人の男性がリンゴスターのドラムは素晴らしいと言ったのです。リンゴスターがいたからこそビートルズはあそこまでなれたんだと。それに対してそのグループの女性がリンゴスターは普通だよと反論しました。

リンゴスターを褒めた彼はその「普通」という言葉が気に入らないらしく、「普通」ではないということを話しはじめました。彼はどんどん興奮してきて口調が厳しくなってきます。そこで周りのメンバーが宥め、結局みんなそれぞれ好きな音楽があってそれぞれが好きな音楽を心に秘めながらバンド活動をすればいいじゃないかと言う結論にもっていきました。

一番年配に見える男性が「音楽は音を楽しむってことでね」と半分茶化しながらその場を丸く収めました。興奮していた彼に「お前の考えは深いな」と持ち上げ、「こんなに本音を言い合える関係は素晴らしい」と場を収めたのです。

興奮していた彼は少し落ち着いたのか、また考えが深いと言われたことに気をよくしたのか声が柔らかくなりました。ただリンゴスターは普通だよと言った女性だけが上手く納得していない様子でした。それから少したって女性がやっぱりリンゴスターは普通だよと言ったのです。さきほど興奮していた彼は余裕を取り戻したのか「またその話?いいよ、聞いてやるよ」と言いました。

女性が言うにはリンゴスターはただ音楽が好きなだけだと、それは普通ではないのかと。男性はそれがスペシャルなことじゃないかと言いました。音楽が好きなだけ、それだけでも彼の特別性は証明できると言うのです。

女性はそれは普通だ、そこがあってからその先の話でしょと反論しました。その先ってなんだよ、それ以上なにが必要なんだ?彼は女性の話がもううまく理解できないようでした。女性もその先がうまく説明できないようでした。

わたしはそこまで聞いて店をでました。店をでたあとも彼らの話が気になりました。わたしの感想ですが、本質的なことを言っていたのはきっと彼女なんだろうと思います。

確かに音楽が好きということはスペシャルなことだと思います。それがなければ音楽を一生の仕事にできないし、聞く人の心を打つこともできないでしょう。でもそれだけではだめだと彼女は言っているのです。

音楽を好きなことは「普通」のことだ。音楽を一生の仕事にしていこうと考えている人は誰だって音楽が好きなはずです。リンゴスター以上に音楽を好きな人はきっといるでしょう。そんな人が音楽で一生食べていけるかと言えばそうではありません。リンゴスターの影には音楽が好きだけれどもあきらめざるを得なかった無数の人たちがいる。彼女はそう言いたかったのではと想像します。

音楽が好きなことはスタートラインでそこから技術だとか才能だとか運だとか、彼女の言う「その先」が必要になってくるんではないか。彼女はリンゴスターに「その先」を感じなかった。

彼らが言うように感じ方は人それぞれなので彼女の感じ方が正しいと言うつもりはありません。ただ口論していた男性よりも女性の方が物事の本質を掴んでいるように思えたのです。そしてその声が男性の興奮した口調や恫喝的な態度で消されてしまうのが悲しいと思いました。

確か村上春樹の小説に書いてあったような気がします。

「良いニュースは多くの場合小さな声で語られる」

皆さんも小さな声に耳を傾けてください。音楽が好きだというのも特別なことです。わたしたちに言い換えるなら神を信じている。たしかにこれは特別なことです。それだけで構わないとさえいえるかもしれません。

それでも神の作られた物語に触れようと思うなら本質に迫ってください。聖書を何度も何度もよく読んでください。そしてみんなで語り合ってください。そこではじめて彼女の言う「その先」が見えてくるのです。その先、神の恩寵。それは小さな声で語られます。耳を澄ませてください。

少し長くなってしまいましたね。わたしの話はちょっと回りくどかったかもしれませんね。うまく理解できなかった方はあとで聞きに来てください。もう少しうまく説明できるかもしれません。

皆さん、ご清聴ありがとうございました」

男性は教卓の前から少し脇へ寄った。そこに立ったまま静かな笑顔を浮かべている。先ほどまで教卓の前にいた女性が再び戻ってくる。こちらも笑顔で聴衆に歌を促す。三回目の歌唱。音が流れる。言葉が部屋を包む。柔らかく暖かい空気。

皆が歌い終わると女性は献金のお願いを述べた。そして椅子に座っている聴衆一人一人のところへ行き、箱にお金を入れてもらう。お金が箱に入る度に女性は深々とお辞儀をする。ミツロウも母から渡された500円玉を箱に入れる。女性はにっこりと笑ってミツロウの頭を撫でた。化粧品の匂いがした。ミツロウはさっと女性から目を逸らした。女性は前の席へと移っていく。黒いスカートに小さな白い糸くずがついていた。それが気になって手を伸ばした。

「じっとしてないさい」

母の手がそれを遮る。ミツロウの心が荒く波立つ。自分の腿を叩く。母を睨みつける。母はミツロウの頭に手を置きながら遠くを眺めていた。

献金を集め終えた女性は再び教壇の前に立ち、深くお辞儀をした。そしてこの献金がどれだけ世の中に役に立つか、神がお示しになる道に辿りつくまでの旅費になるのだと述べた。

女性は皆に週報を開くようにと促した。そして教会の今後のスケジュールを簡単に説明し、聴衆の一人に次回の司会役を依頼した。そしてまた音と言葉。様々な声が織りなす旋律がゆっくりと終息へと向かう。ゆっくりゆっくりと閉じていく。

和やかな談笑の声が聞こえる。聴衆は皆、思うまま好きなところで寛いでいた。母はミツロウの手を引き教壇まで歩いていく。ミツロウはすっかりその空間に飽きていた。ただそのリラックスした空気は好ましかった。母がここでは穏やかな顔をしているのも嬉しかった。父がいないことが心を軽くさせた。

母は前田と名乗った男性の元へと歩を進めた。前田さんは母を認めると小さく頭を下げた。ミツロウは前田さんを見上げる。下へと垂れている目尻、常に上がっている口角、母よりも白い肌、そこに刻まれている皺。それが父と同じ男性とは思えなかった。母と同じ種類の人間だと感じた。

前田さんはミツロウと同じ高さまで顔を持ってくると「こんにちは」と言った。ミツロウはあわてて目を逸らし、母に促されるまま機械的に「こんにちは」と言った。前田さんはにっこり笑うと顔を上げ、母と話しはじめた。

前田さんの後ろには窓があり薄いカーテンがかかっていた。窓は開いておりそこから入ってくる風がカーテンを揺らしていた。まるであのときのようだ、ミツロウはふとそう思ったがそれがいつなのかははっきり思いだせなかった。

日の光が目にまぶしい。ミツロウは目をこすった。視界に半透明の丸い輪や糸くずのような線が映った。それはふわふわと宙を漂い、日の光に照らされきらきらとしていた。ミツロウはそれを目で追った。それはミツロウの視点を逃れるように左へ左へと移動していった。ミツロウも視点を左へずらす。それは逃げる。諦めて視点を元に戻すとそれも戻ってくる。そしていつの間にか消えた。

ミツロウは再び目を擦った。それは現れた。目で追う、逃げる、消える、目を擦る、現れる。ミツロウはいつまでもそれを続けた。横で母が泣いている気配がした。目に映るそれは陽気にふわふわと浮いていた。

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