【新連載】真夜中の森を歩く 3-3
母が死んだ。それは突然の出来事だった。だれも母のその行動に気が付くことはなかった。
予兆はなかった。しかし母を知る者は皆、それが起ったことに疑問をもたなかった。無意識のうちにその死がありうることだと了解していたようだった。父だけが目の前で起こっている出来事を理解できないでいるようだった。ただ涙は流さなかった。呆然としてしばらく酒を飲まなくなった程度だった。
妻の死の責任が自分にあること、それは周囲の人間の噂話によって父の耳に入ったものだが、それを父は頑として受け入れなかった。口にはしなかったが教会とミツロウのせいだと思っているように窺われた。そして二週間も経つとまた酒を飲みはじめた。そして母の代わりに物にあたるようになった。
家の中は荒れ果て、それを片づけるものはだれもいなかった。ミツロウはその家の中で母の亡くなった部屋を自分の居場所と決めた。父はなぜかミツロウに暴力を振るうことはなかった。ミツロウを恐れてか、それともまた別の理由かはわからなかったが、ミツロウの姿を見ると手を振って彼を追い払うのだった。ミツロウは物が壊れる音を聞きながら部屋の中で母の死の様子をいくども思い浮かべた。
母の死を発見したのはミツロウだった。いつも通り学校から帰り、家の中へ入ると異臭を感じた。母を呼んだがだれも返事をしなかった。鞄をテーブルの上に置き、においの元を探るべく寝室へと向かった。ドアを開けると異臭が一段と強まった。
トイレのようだとミツロウは思った。窓を開けようと目をそちらに向ける。窓はすでに開いていて風を受けてカーテンが舞っていた。そしてそのカーテンの後ろに母がいた。
母は宙に浮き、顔を下に向けていた。カーテンレールに細い紐が巻きつけられていた。ミツロウはそれを黙って眺めていた。それはなにか神聖なものを描いた絵画のように思えた。
輪郭の曖昧な母は背景に溶けてミツロウの目の中で一つの世界になった。異臭はもう気にならなかった。ただ目だけが世界を感じていた。カーテンが揺れ、母の輪郭が鮮明に映ったとき、ミツロウは警察に連絡しなければと思った。父のことは頭に浮かばなかった。
ミツロウは毎晩眠る前に母の死の光景を目に浮かべた。夢にもそれは影響を与えた。朝起きるたびにミツロウは嫌な気持ちを感じた。罪の感覚だった。母の死以降、起きるとすぐにシャワーを浴び体を洗うようになった。熱い水がすべてを浄化してくれるような気がした。
葬式は父の家系の宗派である天台宗の作法に則って行われた。しかし通夜にも葬式にも父の親族は出席しなかった。母の親族だけが訪れた。
父と母の親族はお互いヘコヘコとして上辺の話ばかりしていた。母の死の原因についての話はうまく避けられ、ミツロウの今後と金の話に終始した。どちらも母の死になんらかの責任を感じているようで、それを曖昧なままにしておきたいという雰囲気が漂っていた。
ミツロウはその様子を葬儀場の固い椅子に座ってじっと眺めていた。普段は無愛想な父がひきつった笑顔を浮かべ人と話しているのを見ると軽蔑の気持ちが沸いた。
母の親族も責任を父に負わそうとするような意識はなく、むしろ父に申し訳ないというような素振りさえ見せていた。それは優しさや臆病さからではなく、なにか母が悪いことしたという後ろめたい感情を抱いていることを感じさせた。
「気持ち悪い」
ミツロウは誰にも聞かれないように小さな声で呟いた。そして意味のわからない言葉を延々と独唱する坊主の声に耳を傾けた。
一定のリズムで叩かれる木魚の音、ただの言葉の羅列ではなくなんらかの意味を持っていることを窺わせる抑揚のついた坊主の声、それだけが母の死の本質に届いているように思えた。
坊主の声、線香のにおい、ゆっくりと回る行灯の光、自分が普段生きている場所とは違う場所が存在していることを想起させる点では一緒だがその雰囲気は教会とはまた別のものだった。教会で感じる暖かいが緩みなく整えられた一体感とは違い、生卵のようなドロドロとして形のないものに飲み込まれていくような感覚。ミツロウは葬儀の参列者の中に前田さんを見つけたとき、微かな違和感を抱いた。
前田さんはいつもと同じ黒いスーツに黒いネクタイをしていた。父の方を向くと小さく一礼し、他の参列者の後に続いて焼香を行った。前田さんの焼香はとても洗練されていて美しかった。両手を合わせ母の遺影に向かって長いこと黙祷し、それが終わるとまた父に向かって一礼した。その顔は普段の前田さんと違いとても厳しいものだった。父も礼を返したがどこか迷惑そうな顔をしていた。
前田さんは焼香を終えるとすぐに式場を後にした。最後にミツロウの元へ寄り、「今まで通り礼拝にきなさい」と笑いかけた。ミツロウは小さく頷いた。
葬儀の日が過ぎると母のいない日常がゆっくりと進んでいった。父は週の初めにミツロウに金を渡し、それを一週間分の食費にするよう指示した。そしてほとんどの日は家に帰らなかった。
ミツロウは渡された金でスーパーの弁当やパンを買い、それを誰もいない家の中で静かに食べた。さみしいときはテレビを点け、なるべく騒がしい番組を選んで見た。
学校でも相変わらず一人で過ごし、誰かに話しかけられることがなければ一言も話さなかった。
ミツロウの母が死んだこと、それが自殺だったことはクラス中に知れわたっており、陰でそのことを噂する生徒が多くいた。ただ誰もそのことでミツロウをからかうことはなく、むしろその話をミツロウに聞かれないよう細心の注意を払っていた。
ミツロウと敵対していた生徒たちもおとなしくなった。それはミツロウに同情しているというよりは、これ以上彼を刺激するととんでもないことが起るのではないかという直感のせいだった。
彼らはその不安を押しのけてまで自分たちの自尊心をミツロウによって慰めることはしなかった。自尊心を慰撫するための標的ならクラスに他にもいた。
彼らは標的を変え、ミツロウの時と同じように陰湿ないたずらをした。そしてそれはミツロウの時以上に成果を上げ、彼らの自尊心は満たされた。
もはやクラスの誰一人としてミツロウに関わろうとする人間はいなかった。
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