【新連載】真夜中の森を歩く 5-4

薄い闇を瞳が映していた。闇は静かにミツロウを包んでいたが眠りはやってこなかった。

ミツロウは寝返りをうち、枕元に置いてある目覚まし時計を眺めた。緑色にぼんやりと光る短針と長針は午前1時30分を差していた。ミツロウは一つ大きく息を吐き、布団を出た。まるで眠れなかった。

「久しぶりだ」、

ミツロウは窓から外を眺めながら独り呟いた。

今まで、それが例え仕事のない休日だとしても、こんなに眠れないことはなかった。窓から見上げる夜空には少しだけ欠けた月が煌々と輝いており、それを眺めていると一層眠気から遠ざかっていくように思えた。

「しょうがない」

ミツロウは着ていたTシャツを脱ぎ、長袖のシャツとジーンズに着替えた。部屋を出ると父の寝室から小さな話し声が聞こえた。それは言葉としての意味を現してはおらず、細かな音の断片と荒い息遣いだった。ミツロウはそれを無視して玄関へと向かった。白いスニーカーを履き、音がしないようゆっくりとドアを開け、そして閉めた。

外気はひんやりとしてシャツ一枚では肌寒かった。なにか上着を持ってこようか、そう考えたがもう一度部屋に戻るのは面倒に思いそのまま夜の街を歩きだした。

人通りはまるでなかった。猫も鳥もいなかった。遠くでバイクの排気音が微かに聞こえたがそれもすぐに消えてしまった。街灯の光がぽつぽつとアスファルトを照らし、ミツロウが通ると濃い影がさっと通り過ぎた。眠気からは益々遠ざかっていくようで、頭はすっきりとしていた。

明日が日曜でよかった、ミツロウは一歩一歩前に進んでいく自分の足を眺めながらそう考えた。明日は仕事がない、そのことだけで眠れないことに対する焦りを感じずに済んだ。

どこに行くあてもなくミツロウは街をフラフラと歩いた。疲れはまるで感じなかった。むしろ歩く毎に目が冴えていくように感じた。

「明日は日曜だ」

ミツロウは頭に浮かんだ言葉を声に出してみた。声は薄い闇の中に飲み込まれて消えていった。その声を辿るようにミツロウは教会へと足を進めた。だれもいないことはわかっていたがそこに行けばゆっくりと眠れるような気がした。

教会の入り口は鍵が閉まっていた。ミツロウは特に落胆することもなく教会の周りをゆっくりと歩いた。ボランティアの人たちが世話をしている花壇には枯れたヒマワリが首をもたげていた。その隣には百日草が小さな花を咲かせていた。ミツロウは花と土のにおいに顔をしかめると指で百日草の花をピンッと弾いた。百日草はユラユラと揺れた。

花壇から離れ、ミツロウは教会の裏手に回った。教会の建物によって月と街灯の光が遮られ、そこは濃い闇に包まれていた。闇の中で草や折れた枝を踏む自分の足音だけが耳に響いた。裏手から建物に沿って左側に折れると教会の側面へとでた。

そこにも月の光は届いてはいなかったが一カ所だけぼんやりと光っている場所があった。ミツロウは光の差す方へゆっくりと歩いていった。

そこは窓だった。いつも日曜礼拝が行われる礼拝場の窓だった。光は礼拝場の中からぼんやりと外に向かって流れだしていた。薄い薄い光の帯。ミツロウは窓から中の様子を窺った。

窓にはレースのカーテンが掛かっており、その薄い白の間から中の様子が僅かに覗くことができた。いつもの礼拝場。演壇のある前方のみ電気が点いており、光はそこから漏れていた。そしてその光は二人の人物を照らしていた。いつも通り黒いスーツを着ている前田さん、そしてナナちゃん。

ナナちゃんはいつもの制服を着ていなかった。白いシャツに黄色いスカートを履いていた。髪型は三つ編みにしており、化粧を落としているように見えた。それはどこか幼い女の子を連想させた。

ナナちゃんはその幼い顔でなにかを必死に話しているように見えた。ミツロウは彼女がなにを話しているか聞きたい衝動にかられたが窓には鍵がかかっておりどうやっても開けることができなかった。

ナナちゃんはときおり嗚咽したように口を押え、体を折り曲げた。その度ごとに前田さんはナナちゃんの背中をさすっていた。前田さんが背中をさするとナナちゃんは息を吹き返したように前を向き、また話をはじめた。それが何度も繰り返された。ミツロウはその様子をただ茫然と眺めていた。

ファミレスでのナナちゃんの姿が頭に浮かんだ。心に暗く重い情念がぐるぐると渦巻いているのを感じた。

ナナちゃんの目から涙が流れた。それはミツロウの瞳にはっきりと映った。涙は溢れるように流れ、ナナちゃんの真っ新な顔を濡らしていった。ナナちゃんは前田さんの前に跪いた。両手を組み、必死に口を動かしていた。ミツロウにはナナちゃんの声はっきりが聞こえた。それは祈りの言葉だった。母が毎日のようにミツロウに唱えさせた祈りの言葉だった。

天にまします我らの父よ。
願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
み心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

ミツロウの耳に響くその声は母の声だった。ミツロウは母の祈る声がはっきりと聞こえた。

ナナちゃんは口を動かし終えると、ゆっくりと組み合わせた手を解き、その手を前田さんのベルトにかけた。前田さんはなにも言わず、なにもせず、ただ真っ直ぐに前を向いていた。

ナナちゃんは前田さんのベルトを外し、ズボンをゆっくりと下げた。ミツロウはその光景をこれ以上見たくなかった。しかしどうしてもその場から動くことができなかった。カーテンが捲れさえすれば、そうすれば自分はこの場から逃げることができる。

しかし閉められた窓によって風がカーテンを揺らすことはなく、ミツロウはただその光景を見続けるしかなかった。

ミツロウは前田さんの顔を瞬きすることなく見つめ続けた。白い肌、眉間による皺、白髪の混じった頭髪。前田さんは少し苦しそうな、悲しそうな顔をしていた。それは母の顔だった。全てに耐え、苦しむ母の顔。ミツロウが最も恐れ、最も罪を感じるその顔。

心臓が激しく動いた。息が荒くなった。涙がとめどなく流れた。身体がその光景に反応した。罪の意識が心の奥まで深く深く沈んでいった。

ナナちゃんは立ち上がり、前田さんをじっとみつめた。そして涙にぬれた顔で静かに笑った。前田さんはいつもの柔和な顔に戻り、優しくナナちゃんに笑いかけた。ミツロウにはその顔が醜いものに見えた。

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