【長編小説】父を燃やす 6-1

会社を辞めることを伝えると島本由香里は「そう」と答えた。その声の調子には非難めいたものはなかった。中立的な了解を示す「そう」だった。

「真治がそうしたいならそうすればいいんじゃない」

島本由香里の言葉に真治は肩透かしをくったような感じを受けた。相談もなく勝手に退職を決めてしまったことを責められると思っていた。しかし島本由香里は真治の決断は自分の与りしらぬことだと、まるで他人事のような関心しか示さなかった。

真治はそのことが少し寂しかった。投資銀行部門にいた間、激務で島本由香里に会う機会があまりなかったことで島本由香里の愛情が自分から離れてしまったのではないかという不安が心に浮かんだ。

「あまりオレに関心がないみたいだな?」

「関心がないのはどちらかしら?」

島本由香里はそう言うと小さく肩をすくめた。そして殺風景な真治の部屋を見渡した。

部屋には簡素な家具と本棚があるだけだった。人が住んでいる気配があまりないね、と島本由香里はよく言っていた。真治はその度に忙しい仕事の状況を説明した。家はただ寝るだけの場所だ、ゆっくりしてる暇なんてない。

会えないことに不満を漏らす島本由香里を邪険に扱っていたことが今さらながら後悔される。しかたがなかったんだ、その言葉を真治は飲み込んだ。それは今言う言葉として適当でないように思えた。

「辞めてなにするの?」

島本由香里は部屋を眺めるのに飽きたのか真治に視線を戻した。真治はその視線を避けるように島本由香里の全体を視野に入れる。そして島本由香里の変化に気が付く。少し痩せただろうか、頬の丸みがとれ、顎のラインがシャープになっている。表情に微かな疲れが堆積されており、それが陰影となって落ち着いた印象を抱かせる。

「大人になったな」

「はあ?」

島本由香里はあからさまに怒りの表情を浮かべた。真治は慌てて言葉を続ける。

「いや、髪も短くなって大人っぽいよ」

「今ごろ言われてもね」

「え?」

「さあ、私はいつこの髪型になったでしょう?」

溜息とともに怒りの表情から呆れた顔に変化する島本由香里に真治は返す言葉もなく、ただ最後に彼女と会ったときの記憶をたどっていた。あれはいつだったか、曖昧な記憶が頭の中に流れる。そこに浮かび上がる島本由香里の映像は支店で営業をしていたころの島本由香里からなんら変わっていなかった。自分の記憶力が年とともに劣化しているのではないかと思った。あるいは忙しすぎたのだ。黙って宙を見つめる真治の様子に島本由香里はもう一度溜息をついた。

「はあ、もういいよ。で、このあとなにするの?」

「そうだな、まだ漠然としか考えてないけど自分で会社でも作ろうかなと思ってる」

「起業するの?」

「ああ。もう組織で働くのは疲れたよ」

「なんの会社?」

「まだ漠然となんだけど、コンサルみたいなもの、アイデアはあるけど金のない若いやつを資金の面でサポートするような」

「なんか怪しいね、あてはあるの?」

「まあ人脈はある程度残ってる」

「お金は?」

「それなりにある。コンサルなんて初期投資もないし、そんなに金かからないだろ」

「そんなに簡単なの?」

「準備はするよ。失敗しないような計画をたてる」

島本由香里はつまらなそうに口をすぼめ、指で自分の手の甲をさすっていた。自分の話に良い印象を抱いていない雰囲気を真治は感じとった。真治は先を話すのをやめ、島本由香里の言葉を待った。島本由香里の本当にしたい話は別のことだという予感があった。島本由香里はしばらく指で手の甲をさすっていたが、真治が黙っているのに気が付くと指を放し頬杖をついた。

「で、私とのことは?」

「えっ?」

「私とのこと。どうする、別れる?」

「えっ、なんでそうなるんだよ」

島本由香里は頬杖をついていた手を右手から左手に変え、そして大きく息を吐いた。真治は悪い流れの話に背筋を伸ばした。

「真治は別れたい?だって私に興味ないでしょ?」

「いや、おれはただ忙しかっただけで・・・。由香里は別れたいのか?」

「私の話なんてしてない!あなたのこと!あなたがどうしたいかって聞いてるの!」

鋭い声が真治の耳に刺さる。真治は仕事とは違う緊張感が自分の周りに満ちているのを感じた。なにをどう答えれば目の前の女性に許してもらえるのか全くわからなかった。頭に浮かぶ言葉を組み合わせていくつもの解答を作ったがそれを声に出して相手に示すことができなかった。どの言葉も不正解であるような気がした。

「で、真治はどうしたいの?」

島本由香里は元の声量にもどして真治に聞いた。それでもまだ声の響きに怒気が含まれていた。

「オレは・・・、オレは由香里と一緒にいたいよ」

「ふーん、仕事をやめて、成功するかわからない起業をはじめて、それで私についてこいって?」

「いや、由香里が嫌だったらいいんだけど・・・」

「そこはオレについてこいって言うところじゃないの!」

再び真治の耳に島本由香里の声が刺さる。真治は自分が今いる状況がまるで理解できなかった。なにがこんなにまで彼女を怒らせているのかさっぱりわからなかった。忙しくて会えなかったことは悪いと思っている。それについてはいつも謝っていた。負債があるのは自分の方だ。だから彼女の意見を尊重し、彼女がしたいと思っていることに従おうとしている。それなのに彼女は怒りを自分にぶつけてくる。自分は一体なにを求められているのだろうか。頭の中で言葉が混乱する。

「オレは、これから自分だけを頼りに仕事をしたいと思ってる。誰かに指示されたり、誰かの考えに自分を合わせるんじゃなくて、自分の頭で考えて動きたい。成果は自分のものにしたいし、責任も自分で負いたい。自分の能力がどれほどのものなのか、社会の中で自分はどこまで昇ることができるのか、自分を試してみたい。だれかに気を使ってほどほどにやるんじゃなくて、能力を最大限に発揮してみたい。余計なものに煩わされたくない。そう思ってる」

真治は混乱する頭の中から自分の心と合致する言葉を選び、島本由香里に提示した。相手が喜ぶであろう正解ではなく、自分が納得できる正直な気持ちを言葉にした。これでだめだったらもうどうにでもなれという気持ちだった。

「それはわかった。で、私とのことはどうするの?」

島本由香里は真剣なまなざしで真治を見つめている。真治はまっすぐなその視線を受け止めた。

「由香里のことは好きだよ。それは間違いない。ただオレの未来は不確定だし、なにも約束できない。オレと付き合っていても未来が保証されることは、今のところない。由香里が不安に思うのもわかる。由香里も由香里なりの人生のプランがあるんだろう。オレとこれからも付き合っていくかというのは由香里が判断することだと思う。ただオレの気持ちを言わせてもらえば、オレは成功するし、由香里に不幸な人生を歩ませることはないし、だから一緒にいてほしい」

真治が話し終えると島本由香里は眉をしかめて「長い。理屈っぽい」と笑った。そして両手をあげ大きな伸びをした。

真治は自分の気持ちに対する島本由香里の返事を待ったが島本由香里はそれに答えることなく帰る準備をはじめた。きびきびと動く島本由香里の様子を真治は戸惑いながら眺めていた。

自分の言葉は果たして正解だったのだろうか。

島本由香里は椅子の上に置かれていたバックを持ち上げると颯爽と玄関に向かって歩いていった。真治はおろおろとその後ろをついていく。

「由香里、で、お前はどうするつもりだ?」

「そうね、家に帰って考える。あなたもよく考えなさい」

島本由香里はそう言うと勢いよくドアを開け、太陽の光の中に姿を消した。

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