【長編小説】父を燃やす 7-5

雨宮雪子の絵は急激に値上がりした。上海で行われたアジア人アーティストを集めた展覧会で雨宮雪子の絵は数百万円の値をつけ売れた。それから雨宮雪子は海外を中心に個展を開くようになり、その名前をアート市場に浸透させていった。

作品の値段も知名度に比例して高くなっていった。真治とときおり顔を合わせるようになった千葉は真治に自分の感性を誇った。そして真治の買った絵をほしがった。

「私の言ったとおりになったでしょう。彼女の才能は確かだ。それは世界に認められた。あなたが買った絵は彼女の作品の中でも特異なものだ。きっと数千万はくだらないでしょう。是非、私にゆずってください」

真治はそんな千葉の言葉に曖昧に答えた。千葉は残念そうな素振りを見せながらも、真治の審美眼を褒めた。

それから真治は定期的に新しいアーティストの作品を千葉に紹介してもらうようになった。渋谷にある千葉のギャラリーを訪れ、そこでいくつかの新人アーティストの作品を眺める。ほとんどが既存のイメージのコピーかその記号的な組みあわせだった。真治は素直にそのことを千葉に伝えた。千葉は真治の言葉に微笑をもって答えた。

「あなたの言うことは間違っていないと思います。ある批評家は現代芸術は全てリサイクル品でしかないと言いました。凡庸で無価値なことがオリジナリティだという価値観が現代アートにはあると。少し引用しましょう。

『それ自体がすでに無価値・無内容なのに、ことさら、無価値・無内容、無意味とナンセンスを要求し、無価値・無内容をめざすというわけだ。すでに無意味なのに、ナンセンスをめざし、うすっぺらな言葉でうすっぺらを気取るのである』

とね。そこになにがあるか。

『ほんとうの無意味さ、意味に対する挑戦の勝利、意味の解体、意味の消滅の技法』。

わかりますか?」

真治は千葉の言葉に首をふった。

「もう少し続けますね。

『記号をつうじて無が姿を見せ、記号のシステムの中心に虚無が出現することが、芸術にとっての根源的な出来事なのだ。記号の潜在的なパワーから無を出現させること、それこそがまさに詩的な実践であり、現実そのものの凡庸さや冷淡さではなく、根源的で過激な幻想となる』

それを実践したのがアンディ・ウォーホルだとその批評家は言います。それ以降のアーティストは全て彼の模倣でしかないと」

「では、そんなものに価値はないのでは?」

「そうですね。美に関する基準がなくなったのは確かです。価値があるかないか、無価値だからこそ価値があるのか、そもそも価値とはなにか、もはや、わかりません」

「しかし実際にアート作品は値段がつき、売られていく」

「そうです。そのように商業的な戦略を立てて自分の作品を売り込んでいくアーティストもいます。いつだかお話しましたでしょう。概念を操作し、それを宣伝する。アーティストが自らの作品を「無価値だ、無内容だ」と言うことで発生する価値というものがあるんです」

「詐欺のようにも聞こえますが」

「私たちが生きている現実そのものがそういう世界なのです。アーティストたちはそれを表現しているだけです」

「現実そのものが無価値・無内容だと?」

「少なくとも、アーティストが表現をするとき、それを発見する私たちがその作品に価値を見出すわけです。私たち消費者は価値に飢えている。作品をつくるアーティストとそれに価値をつける鑑賞者とは鏡に映った同じ存在なんです。アーティストは自らの置かれている環境、つまり消費者としての現実と自らの欲望を作品として表現する。鑑賞者はその作品に価値を読み取ろうとする。その相互作用が繰り返されるうちにアーティストは消費者の欲望、つまり価値への渇望、を先取りし作品に組み込んでいく。消費者は作品を鏡として自らの欲望を鑑賞し、そしてそこに価値を見出していく。その運動に金が組み込まれると市場が発生する。そして市場はまた新たな価値と欲望をアートに持ち込む。投機対象としての価値。アーティストはそれすら表現の対象とし作品を作っていく。たとえそれが詐欺だとしても、それはアートに関わる全ての人間が共犯者なわけです。一体だれがだれを騙しているのでしょう?」

千葉は話し終えると小さく肩をすくめた。

「あなたはこんな商売をしていてアートが無価値・無内容だと思っているのですか?」

真治はその問いの無意味さを感じながら千葉に尋ねた。どんな立場で自分はこんな問いを発しているのか、真治は自分の傲慢さを隠すため、千葉と同じように肩をすくめた。千葉は真治の問いを予期していたかのように優し気な笑みを浮かべる。

「私は、個性というものを信じています。オリジナリティなんて幻想だなんて言う人もいますが、私はその人だからこそ作れたものという幻想を信じます。批評家の言うことは一つの見方にすぎません。私は自分の感性を信じます。前にも言ったでしょう。私はその作品に恋をするかで決めます。恋だって幻想でしょう?自分の恋した対象が他の人の心を震わせるか、それが私の興味です。そしてそれで私は今までやってこれました。私の恋の対象はある程度、他の人にも共感されるのです。」

真治は千葉の笑みを見ながら燃えていく雨宮雪子の作品を思い浮かべた。あそこには彼女のオリジナリティが表現されていたのだろうか。それが自分の中のなにかを刺激し、あのような行動に駆り立てたのだろうか。

真治は室内に飾ってある絵を眺めた。無価値・無内容な絵。いや、無価値・無内容を装う無価値・無内容な絵。千葉は真治の視線の先にある作品を丁寧に解説していった。真治はその中の一つを購入した。

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