【新連載】真夜中の森を歩く 4-2

淡い色をした表紙の絵本が床に転がっていた。ナナちゃんはそれを拾ってミツロウのすぐ側にある本棚に仕舞う。柑橘系のにおいが鼻を刺激した。ミツロウはその匂いに女性を感じとると、恥ずかしさで顔を赤らめた。

ふと性欲は忌まわしいものという考えが頭に浮かんだ。その固定観念はいつからかミツロウの頭に植え付けられていた。母による洗脳なのか、あるいは世間の常識が知らずに浸透していったのか、ミツロウは自分の意思とは別に疼きだすペニスに深い罪悪感を持っていた。

それは自分の秘密を外に漏らしてしまう忌まわしい装置として常に隠しておかなければならないものだった。ナナちゃんはそんなことに気づきもせずミツロウに近づくと茶色い髪をかき上げた。

「学校って楽しい?」

「えっ?」

ミツロウはナナちゃんのにおいから遠ざかろうと後ずさりをした。

「私、たまに思うの。あーあ高校に行きたい!って。それは自分の意思で辞めちゃったんだけど、後悔もしてないし、あんなくそなところ二度と行くもんかって思うんだけど、でも、ほら、駅とか道とかで、女子高生が制服着てペチャクチャお喋りしてるの見たりすると、あーあ高校生って楽しそう!って思ったりするの。それでね、私もたまに制服を着て街を歩いてみたりするの、平日の昼間にね、そうすると気分がいいっていうか、みんなが学校で勉強してるのに私は自由になんでもできるっていうのがすごく実感できるの。制服着てなきゃだめ。スカートの丈短くして、それも先生に怒られちゃうくらいにね、私の脚をみてごらんみたいな、なに?ばかみたい?でね、お化粧もしっかりして、学校指定のバックを下げて、ローファーをカンカン鳴らせて大股で歩くの。ほんっとまじで気持ちいいから。街の人の視線がみんな私に向いて、それで私はふんっ、だからなんなの?みたい感じで歩いて。でもね、たまに警察の人に怒られるの。学校はどうしたって。私が行ってませーんって言うと、だいたいお説教。だからここでボランティアしてるって言うとなんとなく許してくれるの。ね、なんかばかみたいじゃない?」

ナナちゃんは話し終えると唇を舐めてから数秒宙を見た。そこになにかあるのか気になりミツロウもそちらを向いたが特になにもなかった。ナナちゃんは瞬きをするとミツロウに視線を落とし「バカみたいじゃない?」と言った。ミツロウは黙って頷いた。

「とりあえずね、どこかでなにかしてないとダメなんだって。フラフラしてるとね、みんな怒るの。どこでなにしたって同じだと思わない?あなたはどこどこのだれだれさんでなになにをしてるんですって、あら偉いわね、みたいな。私、そういうのなんかダメな感じで、別に私は私のしたいことするし、どこにでも行くし、好きな服着て気分がよかったら歌だって歌うし、なに?だめ?だからね、今度警察にお説教されたら言ってやるの、catch me if you canって。どう?私の発音あってる?」

ミツロウはナナちゃんのよく動く口をずっと見つめていた。それは様々な形に変わり、ときおり歯が覗き、舌が見えた。どうやったらあんなに早く口が動くものだろうかと不思議に思った。ナナちゃんはミツロウから視線を外し、また宙を見ていた。そしてしばらくそのまま動かずにいた。ミツロウは急に訪れた沈黙になんとなく居心地の悪さを感じた。

「なにか考え事?」

ミツロウのその言葉にナナちゃんはふと我に返ったようにミツロウを見つめた。

「なにか考えてたんだけど、なに考えてたか忘れちゃった」

「数秒前のことだよ、そんなにすぐ忘れるの?」

「そういうこと、よくない?なんか考えてたんだけど、誰かに声をかけられたら忘れちゃうこと。それで、あーあ残念って」

「僕にはあまりないかな」

「僕ってやめなよ、ガキっぽいよ。オレにしな、オレに」

外から5時を告げる音楽が微かに聞こえてきた。その音を合図にしたようにナナちゃんは急に立ち上がった。正方形の棚に置かれているおもちゃ箱をガサガサと漁り、中から黄色いゴムボールを取り出して何度か上に向かって投げた。薄暗くなった部屋にゴムボールの影が忙しなく動く。

「で、どう?」

「なにが?」

「学校。楽しい?」

「つまんないね。僕、オレ、友達いないし」

「ふーん」

ナナちゃんはゴムボールをミツロウに向かって投げた。ゴムボールはミツロウの手をすり抜け胸に当たってから床に転がった。テンテンと乾いた音がした。

「友達のいない学校はつまんないかもね。私も友達いなかったし。なんだろう、嫌われてたのかな?ま、みんなつまんないやつだったけど」

「そう、くだらないよ」

「ね、ボール拾って」

ミツロウは立ち上がって床に転がっているゴムボールを拾い上げた。ナナちゃんがこっちこっちと手を振っている。ミツロウはゆっくりとゴムボールをナナちゃんに向かって投げた。ゴムボールの影は大きく放物線を描いてナナちゃんの手の中に収まった。

「暗くてよく見えないね」

「電気点けようか」

スイッチを押すと部屋に明かりが灯った。物が鮮明に映しだされ部屋は色で満ちた。

「子供って明るい色が好きだよね。ま、私もだけど。ポップカラー?元気な感じ」

ナナちゃんはゴムボールをおもちゃ箱にしまった。明るい場所で見るナナちゃんの姿はまだ子供のようだった。ナナちゃんの人形がおもちゃ箱の中にあってもだれも不思議に思わないだろう、ミツロウはふとそう思った。子供たちはそれを使っておままごとをしたり着せ替えをしたりする、子供に大人気のナナちゃん人形。

「ねえ、ミツロウ君、きみは秘密を持ってるでしょ?」

ミツロウは身を強張らせた。まさか、あのことを彼女は知っている?そう思うと胸が締め付けられるような気がした。心臓の鼓動が早くなり、羞恥心に襲われた。それは決して誰にも言ってはいけない秘密だった。ミツロウは自分のペニスを睨みつけた。そこから漏れたとしか思えなかった。

「ね、あるでしょ。私わかるんだ。秘密を持っている人はね、友達ができないの。私もそう。秘密を心に仕舞ってるから友達ができなかったの。まあ別にって感じなんだけど。秘密と友達どっちとるって言われたら秘密だしね。誰も知らない私だけの秘密。それってなんかよくない?」

筋肉が弛緩していくのがわかった。ナナちゃんの言っている秘密は辞書に載っている意味通りの秘密だった。ミツロウの個人的な秘密の内容のことではなかった。それはミツロウをひどく安心させた。

「秘密は嫌だよ。重苦しいよ。いつまでもオレにまとわりつくんだ」

「いつかばれないかってドキドキしてね、かくれんぼみたい」

ナナちゃんはカーテンの後ろに姿を隠した。薄いカーテン越しにナナちゃんのシルエットが浮かんでいる。ミツロウはなぜか心が痛んだ。

「それ、見えてるよ」

「あーあ残念。でもだれも探してくれないかくれんぼも嫌だよね」

カーテンから姿を現したナナちゃんは髪型を気にして何度も手で梳いていた。

「どう?」

「なにが?」

「髪型」

「さっきと変わらないよ」

ドアの開く音がした。ミツロウが後ろを振り返ると前田さんが立っていた。前田さんはいつもの笑顔で二人に視線を送った。

「そろそろ、ここ閉めますよ」

「はーい、帰りまーす」

ナナちゃんは床に置いてあったバックを持ち上げるとミツロウの手をとって歩きだした。前田さんはそれを見るとなにか納得したかのように二度深く頷いた。ミツロウは恥ずかしさで前田さんの顔をまともにみることができなかった。そしてペニスが疼かないように右手に感じるナナちゃんの手の感触を無視した。

二人が部屋の外に出ると前田さんは中に入って戸締りの確認をはじめた。ナナちゃんはミツロウの手を放し、バックからリップクリームを出して唇に塗った。そしてミツロウに「どう?」と聞いた。ミツロウが黙って頷くとナナちゃんはにっこり笑った。

「ねえミツロウ君、きみ、学校辞めちゃいなよ」

ミツロウはとっさに息を飲み込んだ。なんと答えていいかわからなかった。

「だって、つまんないんでしょ?大丈夫、私が友達になってあげる」

ミツロウはその誘いが自分の気持ちと合致しているように思えた。しかし、前田さんのことを考えると素直に返事ができなかった。自分が卑劣な人間であるようにも思えた。

「私たちは秘密を持っている仲間でしょ。秘密を持っている人は秘密をもっている人と一緒の方がいいんだよ。お互い相手が秘密を持ってるって知ってると上手くいくんだから。かくれんぼも一人じゃできないでしょ。今日からはきみがオニ。はい、タッチ」

ナナちゃんはミツロウの肩を優しく叩いた。その感触がまたペニスを刺激した。ミツロウは黙って下を向いた。祈りの言葉を頭に浮かべた。前田さんが戸締りを終え部屋からでてくる。電気を消し、ドアの鍵を閉める。

「はい、では帰りましょう」

前田さんのその言葉にナナちゃんはにやにやとした顔で応える。

「どうしたんですか?そんな変な顔して」

「変な顔じゃないです。美人です」

「いやいや、そうではなくて、なんだか笑っているから」

ナナちゃんがミツロウを指で突く。ミツロウはまた祈りの言葉を頭に浮かべた。

「すっかり仲良くなって、よかったです。で、今日はなにか楽しいことがあったんですか?」

「秘密です、二人の秘密です」

「そうですか、それは失礼しました」

前田さんはそう言うと大きな笑い声をあげた。ミツロウは羞恥心と罪悪感が胸にこみ上げてくるのを抑えながら小さく笑った。肩にナナちゃんの手の感触が残っていた。

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