【長編小説】父を燃やす 2-11

窓から流れ込む風の中に微かに梅のにおいが混じっていた。母の口ずさむ鼻歌にあわせるかのようにヒヨドリが鋭く鳴いた。

真治は開け放たれた窓からぼんやりと外を眺めていた。朝露に濡れた隣の家の椿の花が日差しを浴びてきらきらと光っていた。作り物みたいだな、その大きく開かれた赤い花は真治に甘いお菓子を想像させた。

「ちょっと、寒いから窓閉めて」

台所から母の声がする。真治は淡く柔らかい景色から視線を外し、窓を閉めた。鼻の奥に梅の香りが微かに残っているようだった。

台所では母と陽菜が料理をしていた。鍋がコトコトと小さな音をたてながら湯気をあげている。ホワイトソースのにおいが鼻に残った梅の香りを消していく。

真治は食事用のテーブルの前に腰かけ、二人が料理をしている様子を眺める。母は陽菜に指示を出しながら大きな鍋に油を注いで火をつけた。陽菜は母の指示に従い、包丁で野菜を切っていた。ときおり母を見上げ楽しそうに笑いかけた。

陽菜はお母さんがいるとベッタリだな、真治は微かな嫉妬を胸にしまい二人の様子を黙って眺めつづけた。

「ねえ、お兄ちゃん。ぼんやりしてないでなんか音楽かけてよ」

母の口ぶりを真似したつもりなのか、陽菜が気取った口調で真治に言う。真治はその話しぶりがおもしろく笑いをこらえながら寝室にあるラジカセを取りに行った。

「なに聞くんだよ?」

ラジカセとCDを持ち帰った真治が再び椅子に座ると陽菜は「ねえお母さん、なに聞きたい?」と甘えた声をだした。真治は持ってきたCDを一枚一枚机の上に重ねていく。

「陽菜はどうせジャニーズだろ?」
「違うもん。ねえお母さんはなにが聞きたい?」
「そうね、真治、カーペンターズのCDあったわよね」

母の言葉に促され真治は積みあがったCDの中から外国の男女が座っている淡い色のジャケットの一枚を取り出し、ラジカセにセットした。しばらくの沈黙ののちゆったりとした音楽とともに透き通った女性の声が部屋に響いた。

The hardest thing I`ve ever done
Is keep believing
There`s someone in this crazy world for me
They way that people come and go
Thru temporary lives
My chance could come and I might never know

母は部屋に響く美しい女性の声にあわせて小さく歌詞を口ずさむ。陽菜は聞き取れる部分だけ母にあわせて言葉を口にした。鍋のたてるコトコトという音とホワイトソースのにおいが音楽に溶け込んでいく。真治は胸からこみあげてくる得体のしれない感情を必死に抑えようとした。女性は歌い続ける。

I know I need to be in love
I know I`ve wasted too much time
I know I ask perfection of
A quite imperfect world
And fool enough to think that`s what I‛ll find

心の奥から湧き上がってくる感情は記憶を喚起する。深い闇に押し込まれていた記憶、感情。真治にはそれらがどんな結果をもたらすのかわからなかった。どんな効果が、どんな有用性があるのか把握できなかった。それらはただ心の奥から湧き上がり、胸を締め付け、頭を陶酔させる。

自分ではコントロールできない感情の高まりとそれに付随する身体の変化。瞳にたまる涙、高鳴る鼓動、鼻から流れる鼻水。

真治は右手で目をこすり、鼻を大げさに啜りあげると「ちょっとトイレに行ってくる」と立ち上がった。台所から母と陽菜の笑い声が聞こえた。油絵の具のにおいがしたような気がした。

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