【長編小説】父を燃やす 最終話

穏やかな日差しが柔らかい緑の間から漏れてくる。日差しを浴び毛をきらきらと光らせながらリスたちが忙しなく動く。人々は日常を身体にまとわせ、それぞれの人生を頭に浮かべながらゆっくりと歩いている。春の午後のセントラルパーク。光が支配する風景の中を真治はゆったりとしたペースで歩く。隣には同じ歩調で妻が従う。

「いいお天気ね」

妻は額に手をかざしながら天を見上げる。木漏れ日が妻の顔をまだらに染める。真治はそんな妻の顔を眺め、そして小さく頷く。

「いつもこんなにのんびりできるといいんだけど」

妻は真治の顔に視線を向け、楽し気に笑った。

「ああ、そうだな」

真治はまっすぐ前を向いたまま答える。そして明日の講演の時間を頭に浮かべる。

日本人アーティストによる展覧会。真治はそこで「現代日本アートのまなざし」について講演を行う。所属しているアート団体からの依頼だった。真治は話すべき内容を頭に浮かべる。英語が頭の中を走っていく。

「Sorry」

真治が後ろを振り返るとピンクのランニングウェアを着た女性が足踏みをしている。サングラスをかけ小気味よく呼吸を繰りかえす。真治と妻が道を開けると女性は「Thank you」と手を振って走り去った。金色の髪が光を浴びてきらきらと光っている。妻が「Bye」と手を振り返す。

セントラルパークを抜け、真治と妻はメトロポリタン美術館を訪れる。入り口前には多くの人が階段に腰かけ、談笑している。ヤンキースのキャップを被った少年が腰をくねらせ踊っている。それを見ている何人かの大人が笑い声をあげる。少年はキャップをとり頭を下げる。拍手がおこる。妻が「Great」と呟く。真治は妻の腰に手をあてメトロポリタン美術館に入る。

真治と妻は多くの鑑賞者に混ざって美術品を眺めた。フェルメール、ターナー、マネ、ゴッホ、ゴーギャン、クールベ。真治は瞳に映る絵画たちを静かに見つめる。色彩と形態が真治の脳に吸い込まれていく。妻が「素敵ね」と囁く。隣の老夫婦が妻の顔をちらりと眺める。妻が彼らに微笑みかける。彼らも妻に笑顔を向ける。

「Japanese?」

老夫婦が妻に話しかける。妻は「Yes」と答える。そして会話がはじまる。真治は妻をあとに残し鑑賞を続ける。スーラ、アンリ・ルソー、ピカソ、ルノワール。

真治は一つの絵の前で足を止めた。

紺色の衣服をまとい、祈るように前屈みになる女性。柱を隔てた向かいには背中に羽をはやした女性が今降り立ったとばかりに同じく前屈みになって立つ。聖母マリアに天使がイエス受胎を告げる場面。

真治はその色彩、構図、形態をじっと見つめた。それらは真治の中で意味を作り出す。意味は真治の記憶を喚起し、そしてまた色彩、構図、形態に還元される。

知覚し、意味づけ、思考し、認識する。その動作を何度も繰り返していくうちに周りの音がゆっくりと消えていく。鑑賞する真治と、鑑賞される絵画、その関係だけが浮かび上がっていく。

ふと目の前に人の影が現れる。影は真治の目の前をゆっくりと歩き、壁に掛けられた絵画の前に立つ。影は上着の内ポケットからライターを取り出すと、絵画に向け火をかざした。

ライターから燃え移った火は絵画を飲み込み、灰へと変えていく。聖母マリアの顔が黒く焼け焦げ、天使が灰へと変わる。影はその様子を満足げに眺めている。

一つの絵が燃え尽きると影は隣に掛けてある絵に移った。影のかざす火はゆらゆらと揺れ、濃淡のある赤が真治の網膜を刺激した。

影の行いによって美術館にある絵画は一つずつ灰へと変わっていった。フェルメールが、マネが、ゴッホが、ゴーギャンが、ピカソがゆっくりと灰に変わっていく。

絵画を一つ残らず燃やしきった影は真治に向かって満足げに笑いかけた。その顔を認識すると真治は自分の身体が固く強張っていくのを感じた。

影は手に持ったライターの火を自分の上着にかざした。火は上着に燃え移り、影は炎に包まれた。

影を覆う赤い炎。炎は影を焼き、そし美術館に燃え移った。美術館は静かにゆっくりと燃えていく。そこに飾られた多数の美術品とともに荘厳な建物が灰へと変わっていく。

全てが燃え尽きたとき、真治は灰の山の前に立っていた。モノが焼けるにおいが鼻を衝く。真治は灰の山を見つめる。そこには視線があった。灰の山の中心から真治を見つめる一対の目があった。

それは少しずつ動き出し、明確な輪郭を帯びていく。灰が崩れ去り、一つの巨大な肉体が姿を現す。歪んだ手足、乱れた白く長い髪。その肉体は灰で汚れた身体を震わせ、ゆっくりと真治に近づいてくる。見開かれた一対の目は瞬きすることなく真治を見つめている。

真治は微動だにせずその一対の目を見つめる。巨大な肉体は不器用に身体を動かしながら真治を両手で掴み、持ち上げた。そして大きく口を開き真治の右腕を喰らった。右腕から赤い血が滴る。痛みはなかった。恐怖もなかった。静かな空虚感だけがあった。

一対の目はしっかりと真治の目を見つめると、再び大きく口を開いた。なにかが腐ったようなにおいがした。真治は一対の目を見つめる。大きく開かれた口が近づいてくる。そして闇が視界を支配した。

「あなた、あなた?」

真治が目を開くと、そこには妻の顔があった。妻は不安げに真治の顔を覗き込んでいる。

「あなた、どうしたの?」

真治は自分の頬に温かいものが流れていることに気が付いた。妻が手に提げたバックからハンカチを取り出し真治の頬を拭く。

「なにかあったの?」

妻の声が記憶を呼び覚ます。真治は妻の手を握りしめると目の前にある絵を見つめた。聖母マリアと受胎を告げる天使。妻の手が微かに震えている。真治は妻の中を流れる血を感じた。赤く熱い血。そして自分の中を流れる血を思った。血は記憶を含んで真治の身体を流れていた。自分の肉体は記憶とともにあった。

色彩、構図、形態。真治は絵を見つめたまま小さくつぶやいた。

「無価値だ。無内容だ」

(了)

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