【新連載】真夜中の森を歩く 8-2

テーブルには食い散らかされたあとの皿が何枚も並べられていた。唐揚げの皿にはレモンが転がり、刺身の皿には大葉とツマが萎れていた。氷がとけすっかり薄くなったウーロンハイを啜りながら高橋が声を張る。

「だから、ぶっとばしてやりゃいいんだよ」

酔いが回っているのか視線が定まっていなかった。ミツロウは頬杖を突きながら高橋を眺めた。頭がぼんやりとして心地よかった。

「そう、そうなんだよ。そうなんだけど、やはりわからせなきゃだめなんだよ。自分たちの主義、いやあんなもの主義とは言えないな、自分たちの無知をわからせなきゃ。そして自分たちがどれだけ国家の毒か思いしらせなきゃだめだよ」

黒田は甘ったるい酒をチビチビ飲んだ。そのカラフルな液体に興味を惹かれたミツロウは黒田からグラスを貰い、口をつける。

「便所の芳香剤の味がする」

ミツロウそう呟くと高橋が大きな声で笑った。黒田はミツロウからグラスを取り上げ、マドラーでクルクルとまわした。氷に光が反射してきらきらと光っていた。

「これは一つの聖戦なんだ。大きな戦いのはじまりなんだよ。クニを取り戻さなきゃいけない。オレたちはあまりにもいい人過ぎたんだ。いや、臆病だったのかもしれない。過去に囚われすぎたんだ、しかも捏造された過去に。オレたちは本当に極悪な民族なのだろうか、いや違うはずだ。オレたちは本来は誇り高い民族のはずなんだ。それが今、侵されている。オレたちの誇りを奪おうとするやつらがいる。そいつらは過去を利用する。無根拠な過去を。それはオレたちから歴史を奪うんだ。歴史を奪われた民族には滅亡しかない。オレたちは滅亡しない。どんなに捏造しようと、どんなに隠蔽しようと、オレたちの中にはしっかりと刻み込まれているんだ。民族の誇りと魂が」

黒田はくるくると回る液体を見つめながらしっかりとした口調で語った。酔いが彼の口を滑らかにしていた。

「誇り高い民族、賛成だな」

高橋が胸をのけ反らせて言う。

「賛成」

ミツロウも続く。吉川は一人ウーロン茶を飲みながら明後日の方角に視線を向けていた。

「オレたちはそろそろ自分のクニを自分の手で守るんだという覚悟をしなければいけない。平和は人に与えられるものじゃない、自分の手で手に入れてこそ本当の平和なんだ。奴隷の平和なんて屈辱そのものだ。朝日が言う非戦にどんな根拠があるだろう。結局やつらはアメリカに守ってもらうことをあてにしてるんだ。それをあてこみながらアジアと仲良くなんて言いやがる。中国、韓国の反日教育を見ろ、あんな洗脳されたやつらと仲良くできるか。仲良くする気がないやつに頭を下げてまで仲良くする意味があるのか。これは民族への侮辱だ。二重の奴隷だ。オレはそうやって媚びへつらってまで平和でありたいと思わない。誇りなき生存なんて死んでるのと一緒だ。ゾンビだ。オレは生きたい。そこに死が待ち構えていようとも、最後の最後まで誇り高く生きたい」

「賛成」

「賛成」

黒田の口調は少しずつ自己陶酔的になっていった。それがミツロウの琴線に触れた。心が沸きあがるような感覚を覚えた。高橋を見ると彼も黒田の言葉に触発されたのか鋭い目つきでなにかを考えていた。空気が収縮し、自分たちの席だけが別の空間に移動したような錯覚をミツロウは感じた。黒田は高橋、ミツロウを交互に見つめると笑みをこぼした。

「それがお前の彼女の新しい男をいじめるのとなんの関係があるんだ?」

収縮した空気が拡散する。一つになった空間が元の居酒屋に戻っていく。黒田は声の出所を睨みつけた。吉川はそれに対峙するように眉間に力を入れた。

「お前は理論を弄んでるだけなんじゃないか。そうやって大きな話をしていて、本当は女をとられたことにプライドが傷ついてるだけじゃないのか。運動を矮小化するな」

「矮小化なんてしてない。確かにこれは個人的な問題に見えるかもしれない。でも根本にはオレたちの誇りの問題が隠れているんだ。オレ個人の自尊心の話じゃない、民族としての誇りの話だ。あいつは誇りを奪うやつらの仲間だ。そしてオレの大事な人間を巻き込もうとしている。それが無知からのことだしても、それは関係ない。毒ははやく抜かなければいけないんだ。お前の視点の方が随分狭いんじゃないか」

黒田、吉川の急にはじめた言い争いにいつもの議論とは違う雰囲気を感じ取りミツロウは黙った。高橋も二人の様子を窺っている。

「お前の個人的なことはお前が自分でどうにかしろ。運動とは関係ない。そもそもあのデモもオレは最近嫌なんだ。あれのどこが運動だ。ただの鬱憤晴らしじゃないか。あれのどこに思想がある?個人個人がため込んでいる日頃のストレスを発散してるだけだろ。あそこには民族としての誇りも歴史から得た思想もない。ただの自意識の寄せ集めだ。あそこにいるとオレは嫌な気分になるんだ。自分の嫌な部分を見せられている気になるんだ。自分の中の処理しきれない自意識が漏れてくるんだ。それが少しずつオレを腐らす。民族の誇りはそんなものじゃない。自意識を超えた先にどうしようもなく繋がってしまう歴史、それを共有していることの自覚の中に誇りが芽生えるんだ。お前たちのクソみたいな人生を慰めるためにあるんじゃない」

吉川は低い声で淡々と語った。決して大きな声ではなかったがそこには怒気が込められていた。吉川は完全に怒っていた。手が微かに震えていた。

「お前が言う民族の誇りにはオレも同意だ。でも、デモを否定することには反対だ。確かに満たされない自尊心の慰めのためにやっているやつらもいるのかもしれない。ただオレたちは本当のことを言ってるんだ。今までだれも言えなかった抑圧された真理を語ってるんだ。それは否定できないはずだ」

「それをあんなやり方でやる必要があるのか。運動っていうのはただ叫んでまわるだけじゃないだろ。一人一人の心の中に思想を根付かせるためのものだろ。だれがあんな強引なやり方でオレたちの思想を受け入れる?反発されるだけだ」

「わからないやつらには強引さも必要だ、実際にあのやり方だからこそ心に響いたってやつもいる」

「違うんだ、運動っていうのはもっと万人に受け入れられるものなんだ。草の根で広まってこそ社会を変えられるんだ。そこには確固とした思想が必要なんだ」

「お前は夢みてんだよ。夢の時代はもう終わってるんだ。行動こそが正義だ」

「行動には思想が必要だ」

「行動したからこそ深まり、広まる思想もある」

「お前の考えは偏見だ」

「今の時代は情報戦だ。それに勝つ方法は圧倒的な偏見を持って相手の情報を探ることなんだ、わかるか?」

吉川はぐっと押し黙った。黒田は余裕を取り戻し、相手をバカにしたような笑みを浮かべている。ミツロウは彼らの話に真剣に耳を傾けていたが、それがどういった内容の話なのかは理解できなかった。ただ黒田が吉川を言い負かしたことは理解できた。「圧倒的偏見を持って相手の情報を探る」その言葉が頭に残った。

「まあまあ、なんだ、今日の議論はいつも以上に白熱だな。おうおう、いいよ、そういうのオレは好きだよ」

高橋が大袈裟にふざけた風を装って二人の間に入った。黒田は高橋に笑いかけ、吉川は視線を逸らした。高橋が肩に置いた手を振り払い、吉川は財布から一万円札を取り出すと、テーブルに叩きつけ、そして立ち上がった。

「今日は帰る」

吉川はそう言い残すと足早に店を出ていった。その後ろ姿を高橋、ミツロウは呆然と見つめ、黒田は「ふんっ」と鼻を鳴らして視界から吉川の姿を外した。

「あいつはびびったんだよ。怖いんだよ、戦争が」

ミツロウは勝ち誇ったような笑みを浮かべる黒田を見ながら、どこかでこんなことがあったような、そんな既視感を覚えた。その既視感は酔いの中で無意識の奥へとすぐに沈んでいった。前田さんの顔がふと頭に浮かんだ。しかしそれもすぐに消えた。黒田、高橋の顔が今の自分にとっての現実だ、混濁する意識の中でミツロウはそう思った。

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