【長編小説】父を燃やす 6-5
事業が軌道に乗ったことを確認すると真治は島本由香里と結婚した。
「やっとこれで一息」
式を無事に終え、ホテルのベッドに倒れこんだ妻がふーと息を吐く。真治はそんな妻の様子を不思議そうに眺めた。
自分の父親に向かって手紙を読む妻の姿が脳裏に浮かぶ。父に対する感謝に溢れたその手紙は会場の涙を誘ったが、真治には妻の口から発せられる言葉の意味をうまく理解できなかった。
父に対する感謝。三十年あまりの年月を共に過ごし、常に娘の身を案じ、時に衝突をし、悪口を浴びせられ、それでも娘を愛し続けてきた父に対する感謝。
真治にはその時間的な長さも、交流する感情の深さもうまく想像することができなかった。ただそういうことが世間では普通なのだと感じた。
ふと母に視線を移すと母も涙を流していた。母はこの手紙のどこに共感し、心を揺さぶられたのだろう。子供を一人前に育ててきた親としての共感だろうか。妻の口から発せられる暖かな家庭像は真治をいたたまれない気持ちにさせた。お父さんとお母さんとお兄ちゃんと私。理想の家族。
「ねえ、あなた」
妻の声に振り返ると妻はベッドに寝転んだまま送られてきた電報を読んでいる。
「なんだよ、その「あなた」ってのは?」
妻は電報から目をはなし、真治に視線を移す。
「だって今日から私たち夫婦でしょ?」
「今までだって一緒に暮らしてただろ?」
「正式によ。みんなの前で式もあげたし。ほら、誓ったでしょ。汝、健やかなるときも病めるときもこの者を愛することを誓いますか?って」
「形式だろ」
「あなたってそういうところつまらない人よね。そういうのが大事なのよ、女の人って。あなた、よく結婚できたわね」
妻はそう言うと一人でけらけら笑った。妻が笑うリズムに合わせて電報とともに送られてきた風船がゆらゆらと揺れた。真治は座っていた椅子から立ち上がり、その風船を軽く叩くと、妻の横に腰を下ろした。妻は笑うのをやめ、真治の手に自分の手を重ねた。
「ねえ、あなた」
「なに?」
「わたし、仕事やめようかなって思うの」
「やめてなにするの?」
「こどもがほしい」
「すぐに?」
「そう、すぐに」
真治は重ねられた妻の手をぎゅっと握りしめると、静かに立ち上がった、妻がゆっくりと寝返りをうつ。
「あのさ、由香里」
「なに?」
「母さんをこっちに呼んでいいかな?」
真治のその問いに妻はしばらく黙った。エアコンの風が風船を揺らし、小さな影がベッドの上を行ったり来たりしている。真治はもといた椅子に戻り、テーブルの上の缶ビールを一口すすった。アルコールのにおいが鼻についた。
「それって一緒に住むってこと?」
妻の声は少し硬かった。微かな拒否のトーンがそこには含まれていた。真治はもう一度缶ビールをすすった。
「いや、一緒に住まなくてもいい。ただ少し近くに母さんをおいておきたいんだ。母さんもだんだん老いてきたし、一人じゃなにかと大変だろうと思ってさ。孫ができてたまに遊びにいったら喜ぶだろうし」
「ふーん」
妻が曖昧な声をだす。真治は続ける。
「家を買うよ。おれたち夫婦の。それでその近くにマンションでも買って母さんにはそこに住んでもらおう」
「そうね、あなたがそうしたいって言うんならそうすれば」
「べつに由香里に世話をしろとか言わないよ」
「そうだとありがたいわね」
妻はベッドから起き上がり、真治の前に立つ。
「私にもビールちょうだい」
真治は手に持っていた缶ビールを妻に渡す。妻はビールを一口飲み「ぬるい」と顔をしかめる。そしてそれをテーブルの上に置くと冷蔵庫からワインのボトルをとりだし、栓を抜いてグラスに注いだ。
「妹さんは?お義母さんと住んでもらうの?」
「陽菜は好きにさせるよ。あいつももう大人だしな」
妻はワインの入ったグラスを小さく揺らすと少しだけ口に含んだ。そして二度うなずくと「あなたもどう?」とグラスを真治に向けた。真治は黙って首を振り、テーブルの缶ビールを手に取った。
「新しいのにしたら?それもうぬるいでしょ」
「いいよ、べつに大丈夫」
真治はビールを一気に飲み干し、空き缶を手でつぶした。そしてそれをゴミ箱に投げ入れた。妻はグラスをもってベッドにもどる。
「家を買って、母親をよんで、それから子供をつくって、犬でも飼う?庭付き一戸建て、優しいお祖母ちゃんと働き者のお父さんときれいなお母さんとかわいい子供たち。真っ青な芝生が敷きつめられた庭には賢いゴールデンレトリバーがいて、子供たちが小さなビニールプールで水遊びして、お父さんは芝刈り機でのんびり芝刈りをしてる。そこにお母さんのつくるお菓子の甘いにおいが漂ってきて、「みんな、おやつの時間よ」みたいな。あなたそういうのに憧れがあるの?」
「由香里の想像だろ」
「昔の映画とかドラマってそんな感じじゃなかった?あんまり覚えてないけど。まあちょっと憧れるかな」
「幻想だよ、幻想。おれはゆっくり芝刈りなんてしてる時間はないよ」
「でも家族に憧れを持ってるのはあなたの方みたいに思えるけど」
「べつに憧れなんてないよ。おれはやるべきことをやりたいだけだよ」
「ふーん、まあ好きにしなさい」
妻はワインを飲み干すとグラスをテーブルに置き、またベッドに横になった。そして電報を読みはじめた。妻の呼吸に合わせて風船がゆらゆらと揺れる。
「あともう少しだ」
真治は陽気に揺れる風船に向かって小さくつぶやいた。
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