【新連載】真夜中の森を歩く 3-1

身長が母を追い越したのは中学二年の秋だった。体にも変化の兆しが見られた。腋や睾丸に毛が生えはじめ、声が低くなった。自分のにおいに敏感になり、容姿について考えることが多くなった。

ミツロウはそんな自分に戸惑いを覚えた。なにかいつも恥ずかしい気持ちを抱えていた。自分の心の声がはっきりと自分に聞こえた。そしてその声はミツロウの言動を束縛し、他人と違う自分を意識させた。

女子とは小学校の頃ほど気安く話すことができなくなった。男子とも話さなかった。ミツロウは教室の隅に座り、自分と他人の違いについて考えていた。そして自分と他人との間に違いを発見しては一人で笑っていた。

休み時間は国語辞典を読んで過ごした。羅列された言葉の響きに自己を埋没させた。なにかの拍子に他人と会話をする場合には国語辞典で覚えた言葉を試した。ミツロウの会話はひどく丁寧で不自然なものだった。誰もが彼とのその会話から関係性の拒否を感じ取った。

ミツロウは檻の中にいた。しかしその檻は監獄のそれではなく安息地だった。監獄はむしろ教室という空間の方だった。区切られた時間と強制される行動によって支配され、規律と従順を押し付けれられる。協同が推奨され、差異は制限つきでしか認められなかった。そして制限つきで認められた差異はヒエラルキーを形成し、規律と馴れ合いながら固定化されていった。

クラスの皆はミツロウをヒエラルキーの最下層とみなしたが、本人はそこから超越していると思っていた。監獄に嬉々として順応しているクラスの皆を見下し、馬鹿にしていた。自分は無関係だと思った。国語辞典と自意識でつくられた檻の中にいる限り誰も自分を監獄の中に入れることはできない、そう思うことでミツロウは学校生活を送ることができた。

ミツロウはいつも国語辞典の隙間から教室の中を見まわしていたが、そこに大西友里恵の姿はなかった。大西友里恵は私立の中学校へと進んでいた。彼女の笑顔、彼女の声、ミツロウは無意識にその存在を探し求めていたが彼の目に映る女子たちはどこか色あせていた。

制服を着こんだ彼女たちは小学校の頃と変わらずお喋りをし、甲高い笑い声をあげていた。一見楽しそうに見える彼女たちもミツロウの目には影絵のように映った。

彼女たちは大西友里恵がいることではじめて自分の色を発することができる。中心がなくなった独楽のように彼女たちはとても不安定に見えた。それは自分と同様に身体と意識の変化による心の動揺だとは理解できなかった。

ミツロウは女子たちの不安定さを大西友里恵の不在こそが原因だと思った。ミツロウは「不在」という言葉を辞書で引いた。

『本来いるべき場所にいないこと』

辞書にはそう記されていた。本来いるべき場所、大西友里恵は本来ここにいるべきだった、ミツロウは考えた。大西友里恵のいない今この場所は自分の本来いる場所ではないのではないか。それはミツロウ自身が「不在」であることだった。

ミツロウは授業中に教師から名前を呼ばれると「ミツロウはただいま不在にしております」と答えるようになった。教師は怒りだした。クラスメイトは笑いだした。ミツロウはただ前を向いていた。

小学校からの慣例は中学入学と同時に一度は消滅したが、ヒエラルキーが固定化されると同時に再びはじまった。奇異な受け答えをするミツロウの存在は自らの意思に関わらず、ある特定の男子たちの好奇心を刺激した。

彼らはいたってノーマルに見えるグループだった。特に目立って勉強ができるわけでもなく、スポーツも得意ではなかった。女子に興味はあるようだったが特に話しかけるわけでもなく、遠目から眺めては仲間内でなにやら言い合って笑っていた。ヒエラルキーの上位にいるグループの周りをフラフラ漂い、どうにかしてその中に入れないかいつも様子を窺っていた。

彼らが欲しているのは定まった場所であり、不安定な自尊心を満足させてくれる地位だった。達成すべき目標を持たず熱中する対象もない、唯一関心があることは人から承認されることであり、承認されることとは上位のヒエラルキーに所属することだと思っていた。

彼らは上位層に自分たちが入れないことを悟ると下位にいる人間をバカにしはじめた。ミツロウはその標的だった。いつも一人で行動し、奇妙な受け答えをするミツロウは彼らの傷つき鬱屈した自尊心を満足させるための生贄に選ばれた。

上履きが隠され、机に悪口が書かれた。ロッカーに濡れた雑巾が入れられ、鞄がゴミ箱に捨てられた。ミツロウはそれらに対して苦情を訴えなかった。彼らの行為を完全に無視した。裸足で授業を受け、悪口が書かれた机に座り、濡れた雑巾をゴミ箱に捨て、ゴミ箱から鞄を拾って机に下げた。淡々と自分の日常を続けた。

ミツロウを標的とした男子たちの自尊心はそれによってさらに傷ついた。自分たちの存在がゴミのようだと言われている気がした。しかも最下層の人間に!

彼らはミツロウに自分の位置を自覚させてやろうと考えた。お前は底辺であり、俺たちの奴隷だと。彼らは仲間内で相談し、計画を立てた。ミツロウを模したラブレターを作成し、それをヒエラルキーが下位の女子の机の中に入れた。そして彼女がそれを見つけると同時に奪い、クラス中が聞いている中で朗読した。

ラブレターを渡された女子は泣いた。ミツロウは黙って国語辞典を読んでいた。ミツロウを陥れた男子グループはミツロウの周りに集まり彼を嘲笑し「あなたのことが好きです」という個所を何度も繰り返した。

女子は泣きつづけ、他の女子が慰めていた。それを見た男子グループは「気持ち悪いってよ。あーあ、ふられた、ふられた」と再び騒ぎはじめる。クラス中がミツロウに注目していた。ミツロウはそれらの視線や声を全て遮断し、国語辞典に書かれている文字に集中した。

「嘔吐」 食べたものを胃から吐き戻すこと。
「応答」 問いかけや呼びかけに答えること。受け答え。
「桜桃」 バラ科サクラ属の落葉小高木。晩春、葉より先に白い花をつけ、6月ごろ、球形で紅色の果実がなる。中国の原産で、日本へは明治初期に渡来。みざくら。しなみざくら。食用になる桜ん坊。また、その果実をつける種または品種の総称。セイヨウミザクラなど。

突然、国語辞典が宙に浮いた。ミツロウに視界に教室が映った。声が聞こえた。

「なんだよ、無視すんなよ」

その声はミツロウの檻の中に侵入し、自意識に突き刺さった。ミツロウは不意に立ち上がり、目の前にいた男子を力いっぱい殴りつけた。男子は鼻を押さえて倒れこんだ。

教室は静かになった。殴られた男子の仲間は呆然と立ち尽くしていた。ミツロウは彼らを睨みつけた。そして国語辞典を拾い、再び読みはじめた。

誰かが咳をした。男子グループは殴られた仲間に駆け寄り、オドオドしながら眺めていた。鼻血が流れていた。

「おい、どうする?」

「え?え?」

「ティッシュ、ティッシュ」

女子がティッシュを渡し、殴られた男子はそれを鼻に詰めた。ミツロウを一度睨みつけ、そして仲間を見渡した。仲間はあちこち別の方を向いていた。

騒動は女子の口から教師へと伝わった。今回は誰もミツロウを庇ってくれなかった。ミツロウは職員室へ呼ばれ、教師から事情を聞かれた。ミツロウはただ「むかついたので殴った」とだけ答えた。殴られた男子は一方的にミツロウの非を責めたてた。ラブレターを渡された女子は自分はなにもわからない、ただ手紙が机の中にと言って泣いた。

教師は事態の真相をうまく理解できず、騒動はうやむやのうちに終わった。「暴力はいけない、もちろん言葉の暴力もだ」その言葉だけが朝礼で皆に告げられた。男子グループはミツロウを遠巻きに眺めながら復讐の機会を探り、ミツロウは手に残った肉を叩く感触を反芻した。

それからミツロウと男子グループの抗争がはじまった。男子グループは影に隠れながらミツロウの自意識を刺激した。ミツロウはそれに暴力で応えた。そしてその度に職員室へ呼ばれた。被害者はいつも男子グループであり、加害者はミツロウだった。

ミツロウはいつしか問題児のレッテルを張られていた。自分の気に食わないことがあると暴力ふるう生徒。母も学校へ呼ばれた。母は教師に謝り、ときには男子グループの母親にも謝った。男子グループの母親は皆、ミツロウの母を罵った。どんな教育をしているのかと。教師も母に家庭環境に問題があるのでは?と尋ねた。母はただひたすら謝っていた。そして家に帰るとミツロウの言い分を聞き、祈りの言葉を暗唱させた。

「主よ、我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも許したまえ。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」

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