【新連載】真夜中の森を歩く 1-1

白い皿が宙を舞っていた。それはほんの数秒の出来事だったが、ミツロウの脳裏にはクルクルと回る皿がコマ送りのように断片的に刻まれた。

ゆっくりゆっくりと前進する皿。それを追いかける瞳。窓が割れる。音。

ミツロウは音が鳴った方に目を向ける。母が、地面にうずくまり顔を手で覆っている。なにかを必死に呟いている。ミツロウは母のもとへと這っていった。母はミツロウに気が付くと彼を抱きかかえガラスの破片が足に刺さっていないか丹念に調べた。

笑顔。ミツロウに向けられた母の笑顔が彼を不安にさせた。

「お母さん、大丈夫?」

母はまたなにかを呟きながらミツロウに両手を組ませ、自分の手でそれを覆った。母の手は冷たかった。

「主よ、我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも許したまえ。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」

母はミツロウにも同じ言葉を口にするように促した。ミツロウは母の口真似をしてゆっくりゆっくり言葉を吐きだした。それを口にすると気持ちが楽になった。母が心から笑ってくれたからだ。

割れた窓から風が吹き込んでいた。風はカーテンを揺らし母とミツロウを覆った。カーテン越しの日の光が瞳を刺激した。ミツロウはパチパチと瞬きをした。光が映っては消えた。

「お、お、お前には、お前には、わからないんだ。なんだってんだ、なんだってんだよ、おい!おい!お前だよ、お前に言ってるんだ」

父がグラスを母に向けて投げる素振りをした。母はミツロウに覆いかぶさる。

「ガキが、そのガキがなんだって?え?え?オレの息子だって?え?え?それがなんだってんだ?」

振り上げたグラスに酒を注ぎ、父は一息に飲みほした。息が荒かった。しきりに頭を掻いている。そこから白いフケが落ち、日の光に照らされてキラキラと光った。

ミツロウは泣いた。父の声が恐怖を煽りたてた。

「おい!おい!ガキ!うるせえぞ!え?ガキが、だからガキなんだよ、てめえは。おい!ガラス片づけろよ、怪我するだろ、ほら、はやくしろ」

母は泣いているミツロウの頭を撫でると立ち上がりガラスを拾いはじめた。ミツロウはカーテンを自分の体に巻きつけ、そこで泣きつづけた。暗闇が心地よかった。

ミツロウはカーテンの隙間から部屋を覗いた。父は眠ってしまった。母が箒でガラスの破片を集めていた。ガラスは日の光を反射してキラキラ光っていた。ミツロウはそれが綺麗だと思い破片を一つ手に取った。微かな痛みとともに指先から血が流れた。ミツロウはまた泣きだした。母がティッシュに指先を包み、絆創膏を貼ってくれた。

「危ないから触っちゃダメ」

母はミツロウに窓から離れるよう言った。ミツロウはその言葉に従い部屋の隅に座った。父にはなるべく近づかないようにした。

父は机に突っ伏し、小さく体を上下させている。父の体から嫌なにおいがしているような気がした。そのにおいには色がついていた。父の体を覆っているその色が部屋全体に広がらないようミツロウは心の中で祈った。母は小さな声でなにかを呟いていた。ミツロウも心の中で呟いた言葉をそっと口に出してみた。

「きれいに、きれいになりますように」

窓からは外の風が吹き込んでいた。母はカーテンを閉め、ガラス屋に電話をかけようと部屋を出て行った。

遠くから母の話し声が聞こえる。いつもとは少し違う声。

ミツロウは立ち上がって母のもとへと歩いていった。父が少し動いたので途中から駆けだした。母は電話をすでに終えており、受話器を持ったままぼんやりとしていた。ミツロウは母の足に抱きついた。母はミツロウの頭に手を置き「少し外に行きましょう」と言って部屋へと戻っていった。

母はタンスから半ズボンとシャツを取り出すとミツロウを着替えさせた。シャツにはLOVEと書かれていた。ミツロウはそれを指でなぞった。母は「ラブ」と口にした。ミツロウも同じ言葉を繰り返した。

日が穏やかにミツロウを包んでいた。風が心地よかった。ミツロウは母の手を握り、ゆっくりと歩いていた。車が通るたびに母はミツロウを道の端まで導いた。そしてそこで少し立ち止まった。

車が走り去ると母はまたミツロウを引っ張って歩きだした。銀杏のにおいがした。「くさい」とミツロウが言うと、母は小さく笑った。ミツロウは母の手を放して一人で先へと進む。

ムクドリが電線に止まっていた。ミツロウはムクドリに向かって叫んだ。ムクドリはピクリとも動かなかった。ミツロウは後から歩いてくる母に「捕まえて」と言った。

「あんな高いところ、お母さんでも届かない」

母はムクドリを見上げた。ミツロウは道に転がっていた石を拾い、ムクドリに向けて投げた。石は電線まで届かず緩やかに弧を描いて地面へと落ちる。それでもムクドリは危険を察知したのか、電線から飛び立った。何十ものムクドリが飛び立ち、影のように遠くへと去っていく。ミツロウはその影をずっと目で追っていた。母がミツロウの手をとり、また歩き出した。

「鳥、どこいくんだろうね」

「そうね、おうちに帰るのかもね」

「あんないっぱい?」

「そう、あんないっぱい」

ミツロウはムクドリの家について考えた。そして自分の家にムクドリが集まる様子を想像した。

「こんにちは」

母がだれかに挨拶をした。ミツロウはそちらに気を向けた。白髪の男性が犬を引っ張って歩いていた。ミツロウを見て「こんにちは」と言った。ミツロウは下を向いて黙り込んだ。

「ほら、こんにちはでしょ」

母はミツロウの頭を押した。ミツロウは男性の顔を見ないようにしながら小さな声で「こんにちは」と呟いた。ムクドリの家のことはすでに頭から消えていた。舌を出しながらミツロウを見上げる犬に興味が沸いた。犬は小気味よく息をしていた。ミツロウが手を伸ばすと犬は尻尾を振った。茶色い毛はフサフサとして気持ちがよかった。体が熱かった。

母は男性となにやら話をしていた。ミツロウは犬の背中を撫で、首の下を擽った。犬は急に体を反転させ、仰向けになって寝ころんだ。ミツロウはそれを上から見ていた。犬の腹は白く上下に揺れていた。

母と話をしていた男性がしゃがみこみ犬の腹を撫でた。犬は気持ちよさそうに小さな鳴き声をあげた。ミツロウも腹を撫でようとすると男性が犬の首輪をひっぱり、犬は急に立ち上がった。

「それでは、また」

男性は犬を引っ張って歩いていった。母が男性に向かって頭を下げていた。ミツロウは犬に手を振った。男性が手を振りかえしてきた。

公園の池には鴨がいた。ミツロウは母の手を放し、池へと駆けた。鴨は池の中央でゆっくりと泳いでいた。黒く大きな鴨を先頭に三羽が列になって進んでいく。水面がユラユラ揺れていた。

母はベンチに腰を下ろし、ミツロウを眺めている。ミツロウはそれを確認すると、池を囲っている柵に乗り出し鴨に向かって手を伸ばした。足が宙に浮いた。体が前に傾いていく。宙ぶらりんの間隔が楽しく、ミツロウは笑った。重心を前へ後ろへバランスを取りながら揺れる視界が愉快だった。

もっともっと。ミツロウはさらに体重を前へかけようとした。ふわっと体が浮いた。青い空が映った。そして母の顔。足はしっかりと地面を踏みつけていた。

「危ないでしょ」

母はミツロウの手をとりベンチまで導いた。そして母はまたベンチへ腰を下ろした。ミツロウもその横に座った。半ズボンからでた脚がベンチの冷たい感触を伝えた。

地面には小さなアリが忙しなく動いていた。ミツロウの靴の周りを何十匹ものアリが行ったり来たりしていた。ミツロウは靴でアリを踏みつぶした。足を上げると踏みつけたところからまたアリが這いだした。ミツロウは何度も何度もアリを踏みつけた。アリはまるで死ななかった。ミツロウは腹が立った。

「みっくんはお父さんのこと、好き?」

母はミツロウに優しく微笑みかけた。

「きらい」

「なんで?」

「お母さんを叩くから」

母は困ったような顔をした。

「お父さん、かわいそうだと思う?」

「お母さんがかわいそう」

「ううん、お父さんのこと。お父さん、かわいそうでしょ」

「うーん、わかんない」

アリがミツロウの靴に上った。ミツロウは指でアリを潰した。アリは折れ曲がって動かなくなった。

「神様がいるのよ。お父さんはそれがわからないの」

「神様?」

「そう、みっくんは信じてるでしょ?お祈り、するよね?」

「神様はなんでお父さんにお母さんを叩くのをやめさせてくれないの?」

「お母さんは罪があるの。それを償わなければいけないの」

「罪ってなに?」

「悪いことをした印かな」

「お母さん、悪いことしたの?」

「そう、だからそれがきれいになるように毎日お祈りするのよ」

「僕もお祈りするよ。僕も悪いことしたの?お父さんはお祈りしないよ、悪いことしてないの?」

「みっくんの罪はね、イエス様が代わりに償ってくれたの。だからみっくんはイエス様にありがとうってお祈りするの。お父さんははね、罪がないと思ってるの。神様もイエス様も信じていないの。だからかわいそうなの」

「どうしてかわいそうなの?」

「救われないからよ」

母はミツロウの頭を撫でた。ミツロウは母を見上げた。母の向こうに青い空が見えた。空は遠いのか近いのかわからなかった。ただ目の奥に青がゆっくりと染み込んでいった。

ミツロウの体中に青が充満する。それが母の言っている神様なんだとミツロウは思った。そして自分にも「罪」があるような気がした。それが嬉しかった。自分も罪を持つことで母と一つになれるような気がした。ミツロウと母は同じ一つの罪で繋がることができる。

「てんにまします、われらのちちよ、ねがわくはみなをあがめさせたまえ」

ミツロウはゆっくりと言葉を口にした。母は静かに笑っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?