【長編小説】父を燃やす 4-2

「じゃあ、真治は何を学ぶんだ」

沈黙のうちにも雄弁に語る今村悠太の瞳に真治は態度で返答した。

真治は大学で様々な学問に触れながら、経済学へと軸足を移していった。空白に意味を見出す虚ろな学問ではなく社会を支配している金、その仕組みを会得したかった。

今村悠太に言わせれば経済学こそ虚学の最たるものに違いない、真治は静かに光る今村悠太の瞳にその意味を感じ取った。確かに悠太から見れば魔法のようなものかな、真治は経済学の初歩を学ぶうちにそう考えるようになった。

結局は損得の問題であり、どう効率化するかの話だった。効率化の意味がわからず、一時の感情に流されて右往左往する人間が、長期的な利益も損なうのだということだと真治は理解した。

「神の見えざる手」なんて言ったら悠太は怒るんだろうな、真治はミクロ経済学の教科書を眺めながら小さな笑みをこぼした。

今村悠太のような人間がどう思うかを考えながら経済を学ぶことが真治には面白かった。

教科書に描かれる需要曲線と供給曲線。その緩やかなカーブを描く線の中には一つ一つの企業、一人一人の個人があった。

企業は利潤を、個人は消費から得られる満足を、それぞれが得られる効用を最大化するために一番合理的な行動をする。その行動が二つの交差する曲線に描かれているのだ。

真治はそのあまりにも単純な理屈を今村悠太の視線で眺めてみた。

一人一人の人間がすべて合理的な行動をするわけじゃない。人間は様々な環境や状況の中で絶えず揺れ動く感情に左右されて生きている。合理化に必要とされる理性は感情の波に飲み込まれて常に狂いをもたらす。その狂いは多種多様であり、その多種多様さが人間の本質なのだと。

真治に乗り移った今村悠太はなおも続ける。

狂い、錯誤する人間の行動をグラフにすることは不可能であり、一人一人の個人が合理化と非理性のはざまで揺れ動きながら予測不可能な生を送る、その誰も代わりに背負うことのできない一回限りの自分の生、それを掬いあげるのが文学なのだと。

真治は脳裏に浮かぶ今村悠太の姿に反論を試みる。

狂いや錯誤は、それをどう扱ったところで狂いや錯誤でしかない。狂いや錯誤は修正されるべきであり、すべての人間が最大化された効用を得ることは素晴らしいことではないか。

感情は理性でコントロール可能であり、それができないということはただ未熟なだけなのだ。理性は有用性をもたらすことではじめてその効果を発揮する。この場合の有用性とは利潤と満足を最大化することであり、曖昧な感情の発露を正当化することではない。富の増大こそが社会に最も必要とされていることなのだ。

今村悠太はいつものように黙りこくる。その姿は小学校のクラスで一人黙々と漫画を読んでいる様子と同じだった。

どうだ悠太、なにか反論できるか?

真治は教科書を眺めながら今村悠太に問いかける。

富の増大には必ず負を背負う人間がいる。儲けるものと損をするものが対立する。損をするものへのまなざしが必要だ。

今村悠太が顔をあげる。

いや悠太、損をするものは結局理性が足りないだけなんだよ、合理的に行動すれば、それがハンデのある状況だとしても、長期的には利を得られるんだよ。神の手によってね。だから理性の足りない人間には教育をすればいいんだよ、感情をコントロールし利益を得るための術をね。むしろその理性の足りない人間のせいで理性的な人間まで被害をこうむるんだ。その被害を最小にするために理性をあまねく広めるんだ。

真治は諭すような言葉を頭に浮かべる。

理性なんて所詮幻想だ。そこには経験がない。

今村悠太が言う。

感情こそが幻想だ。そこには経験への反省がない。

真治は経済学の教科書を眺めながら飽きることなく今村悠太の影と議論した。真治にとって大学での勉強とは今村悠太との対話だった。

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