【新連載】真夜中の森を歩く 3-4

「お母さんは本当に気の毒な方でした」

前田さんはミツロウの方をポンと叩いた。人気のない教会はいつも以上に静寂に満ちていた。日が傾きかけ、部屋の中は次第に薄暗くなっていったが、前田さんは明かりをつけようとはしなかった。壁にかかっている十字架がぼんやりと浮かぶ。

「しかし、とても美しい方でした」

ミツロウは黙って頷いた。母の顔が脳裏に浮かぶ。罪の意識がミツロウをちくりと刺した。前田さんはそれを感じとったのか優しく笑いかける。

「自ら命を絶つことは決してやってはいけないことです。それがどんな状況にあってもです。生きていれば必ず救いは訪れます。自ら命を絶つことでは救われない、ただ一つの状況が別の形に変化するだけです。状況を変えることではなく、魂を美しく保つことが必要です。お母さんはとても美しい魂をお持ちでした。気の毒なことです」

「お母さんは地獄に行くんですか?」

ミツロウは地獄に行くのは自分かもしれないと考えながら前田さんに尋ねた。地獄という言葉に恐怖と愉悦の感情が沸いた。

「十九世紀のロシアにドフトエスキーという作家がいました。彼の最後の作品が『カラマーゾフの兄弟』という小説です。きみもそのうち読んでみるといい。その中にゾシマ長老という修道士がいます。そのゾシマ長老がこんなことを言います。『地獄とは何か?』とわたしは考え、『もはや二度と愛することができぬという苦しみ』であると判断する。君のお母さんはもはやこの地上でだれかを愛することはできない。お母さんにはとてもつらいことだと思う。でも生きている間は君を精一杯愛した。それこそ自分の命を捧げるほどの愛だよ。お母さんは愛を知っている方だった。とても魂の美しい方だった。そんなお母さんを神様が地獄に落とすと思うかい?お母さんはこことは別の場所で君を愛し続けている。君の幸せを祈り続けてると思うよ。そうやってお母さんが永遠に君を愛し続けている場所がある。愛することのできる場所、それは地獄ではないんだよ。お母さんはきっと天国にいる。詭弁に聞こえるかな?」

「詭弁ってなんですか?」

「こじつけとか屁理屈とも言うね」

前田さんは声を出して笑った。

「僕には難しくてよくわからないです」

「そのうちわかるときがくる」

部屋の中はすっかり暗くなっていた。前田さんの影がわずかに震えていた。

いつの頃からか目に映る半透明の丸い輪や糸くずは見えなくなっていた。その代わりに人の表情の変化がよくわかるようになった。ミツロウは半透明の輪や糸くずを懐かしく思った。あの世界に戻りたかった。

後方でドアの開くことがした。振り返るとドアの隙間から明かりが漏れていた。そこに大小二つの影が佇んでいた。

「神父さん、私たち帰ります。まあこんなに暗いところでお説教ですか」

女性の笑い声とともに大きな影が揺れた。

「男同志の秘密の話ですよ」

「秘密でもいいですけど、電気くらい点けたらどうです?ほら、点けますよ」

部屋が急に明るくなった。ミツロウは眩しくて目を細めた。小太りの女性とミツロウと同じ年くらいの女子が目に映った。女子はにこにこ笑いながらこっちを眺めていた。髪の毛が茶色く光っていた。

「それでは女性は先に帰らせていただきます。あとは男性同士でごゆっくり。ほらナナちゃん、帰りましょう」

小太りの女性はそう言うと隣の女子の背中を押した。ナナちゃんと呼ばれた女子は前田さんに小さくお辞儀をし、ミツロウに向かって手を振った。ミツロウも反射的に手を振っていた。ナナちゃんは手を口元に持っていき目を大きくさせた。そしてくるりと後ろを向いた。

二人がなにか話しながら去っていくのを見送ったミツロウは微かな羞恥心とともに手を膝の上に戻した。

「今の女性は吉岡さんといってボランティアで子供たちの面倒をみてくれている方です。ナナちゃんと呼ばれていた子は最近この教会にくるようになって、まあ、あの子の家もなかなか複雑でね。君の一つ年上だ。高校には入学したんだけどほとんど行ってなくて、フラフラしてるんならって親がここに連れてきたんです。それでたまに吉岡さんと一緒に子供たちの面倒を見てもらって。ナナちゃんは明るくてね、子供たちにも大人気だ。優しいいい子だと思うけど、学校にそういう子の居場所がないというのはどういうことなんだろうね。君とどこか通じるところがあるかもしれない。今度、紹介しましょう。同世代の友達がいるのはいいことですよ」

部屋が明るくなったことで空気が暖かくなったように感じた。ミツロウはさっきまで振っていた手を強く握りしめた。青い血管が浮き出ていた。皮膚から細い毛が生えていた。クラスメートを殴ったときの手の感触が蘇った。その手は父の手を思い起こさせた。ミツロウは小さく震えた。

「お母さんは僕のことで絶望したから死んだんだ」

前田さんは絶望という言葉に驚いたように視線をミツロウの顔に向けた。そして優しくミツロウの背中をさすった。一瞬固くなった表情が次第に柔らかくなっていく。

「そんなことはない。お母さんはどんなことに対しても決して絶望なんてする方ではない。きみの将来を案じていたのは確かだけれど、きみに絶望したりなんかしない」

「じゃあ、なんでお母さんは死んだんですか?僕が問題児だから、だんだんお父さんに似てくるから、だから」

「きみはとても鋭敏な感性をしているんだね。そう、きみくらい歳の子はみんな鋭敏な感性をしている。私たち大人がそれを理解せずにきみたちの心を傷つけているのかもしれない。自分たちも同じ経験をしているはずなのに、いつしかすっかり忘れてしまっている。自分たちと同じように目の前のことをこなし、そして忘れていくものだとばかり思っている。きみたちにとっては全てのことが心に刻まれ、残っていくんだね。それも現実以上に鮮明に。私はときどききみたちが怖くなる。私が何気なく表している言葉や行いがきみたちを深く傷つけ、あるいはきみたちの人生に大きな影響を与えているかもしれないと思うときがある。そう思うと怖くなるんです。私はきみたちを傷つけなかったか、悪い影響を与えなかったか、そう自問自答するときがあるんです。それはわからない。ただ誠実であろうと思うのです。きみたちにも、そして主にも。人に影響を与えることはとても怖いことだ、きみたちを見ているといつもそう思うんです、きみたちに私は正しい人間か驕った人間ではないかいつも見られている、そう思っているんです。きみたちの視線は神の視線です。そしてそれを恐れる私はまだ弱い人間なのです」

ミツロウは母が死んでから毎晩のように見る夢を思いだした。そしてそれを前田さんに伝えたかった。それを伝えれば自分の罪が軽くなるような気がした。しかしどうしても言い出せなかった。決して言ってはいけないことのように思えた。これは自分だけの秘密であり、自分だけが背負う罪だと直感した。前田さんの手はまだミツロウの背中にあった。服の上からその感触が伝わってきた。

「きみは高校へ行くべきです」

前田さんの言葉は唐突にミツロウの頭に響いた。

「お父さんと話はしました。いろいろ難しい人だけど、学費は払ってくれるそうです。そんなこと当たり前なんですけどね。少し勉強をしてみてはどうでしょう。きみがちょっと本気になれば入れる高校はいくらでもある。私も協力します。きみにはまだ猶予が必要です。高校に入ってゆっくり考えていけばいいんです。焦ることはない。今はまだその感受性に戸惑っているかもしれないけれど、少しずつ慣れていけばいい。そしていろんなことを理解していくのです。自分のことや、社会のことや、世界のことや、神のことを。知識はきっとその役にたってくれるはずです。そうやっていろんなことを理解していくうちにお母さんのことも理解できるようになります。まずはゆっくり、少しずつはじめましょう」

ミツロウはまた三年も学校という監獄に入れられるかと思うとぞっとしたが、前田さんを失望させたくなかった。そして、自分はまだ子供なんだと思った。無知で無力な全くの子供。示された道をただ歩いていくだけでいいんだ、自分にそう言い聞かせると少し気が楽になった。

「数学が苦手です」

ミツロウが小声で呟くと前田さんは嬉しそうな顔をした。

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