【新連載】真夜中の森を歩く 6-4

店内は煙草のにおいで充満していた。薄暗い照明にゆらゆらと煙の筋が浮かんでいた。カウンターに座る高橋はビールを勢いよく流し込むと「つまみ」と大きな声で叫んだ。カウンターの内側にいた中年の女性が皿に柿の種とポテトチップスを盛り、高橋の前に差し出した。

「乾きものじゃなくてさー、もっとあったかいものくれよ、手作りのさ」

高橋はそう言いながらも皿の上の柿の種を手で掴み、口に入れた。わざとらしく音を立てて咀嚼すると、頑丈そうな顎が上下に動いた。

ミツロウはその顎を凝視しながら自分のコップを手でなぞった。冷えたビールの入ったコップは汗をかき、指が水滴で濡れた。その指を作業着に擦りつけ、ポテトチップスを一枚齧った。エアコンがカタカタと鳴っていた。

「ヨシくん、汗臭い」

高橋の隣に座っていた女が甘ったるい声を出した。目の大きな、茶色い巻き髪をした女だった。

「このにおいで濡れるんだろ?」

高橋は上着を脱いで女の顔を被せた。女は身をのけ反らせ上着をはたき落した。茶色い髪が露出していた背中を隠した。

「濡れるとか言わないの、ほら、お友達もいるんでしょ」

女はミツロウににっこりと笑いかけた。ずいぶんぺちゃんこな鼻だな、ミツロウは軽く頭を下げながらそう思った。

「こいつ、オレの女な。アリサって言うんだよ。よろしくな」

高橋はアリサと呼んだ女の肩に手を回した。

「どーも、アリサです」

高橋の肩の中で女は二本の指を頬にくっつけて唇を尖らせた。

「で、これがこいつのママ。ついでにこの店のママな」

「どーも、ミユキです」

カウンターの中の中年の女性がアリサと呼ばれた女性と同じように二本指を頬にくっつけ唇を尖らせた。

「ママ、ママ、その年だときつい」

高橋とアリサは爆発するように笑い声をあげた。中年の女性はむっとした表情を作った後、すぐに自分も笑った。ほうれい線がくっきりと浮かび上がった。

「ほんとに若いだけで自分が偉いみたいにね、いい?ヨシ君。今度、普通にお金とるよ」

「いや、それは勘弁。若者は貧乏なんだよ。あっ、ママ、今日は化粧のノリがいいね。アリサと姉妹みたいだよ」

「ほんとに調子がいいね。で、そちらも貧乏なの?」

ママがミツロウに視線を向ける。

「そいつからは金とっていいよ、なにせ社会人だからな」

「お前だって社会人だろ」

「ほら、オレはなんというか、自由人だからさ。縛られたくないんだよ。社会なんて糞喰らえだ」

高橋はピーナッツを放り投げて口に入れた。上を向いた瞬間に喉仏がゆっくり動いた。それはミツロウに動物を連想させた。

「私も、私も」

アリサは高橋のTシャツの袖を引っ張るとピーナッツを一粒渡し、上を向いた。

「ほら、いくぞ」

高橋はそう言うとピーナッツをそのままアリサの顔に投げつけた。ピーナッツはアリサの目元にあたり、床へ落ちていった。アリサは目元を抑えながら高橋の肩を殴った。

「ひどい、てか、ちょー痛い」

高橋は子供のように笑った。目尻の血管がぴくぴくと動いていた。アリサは大袈裟に痛がる素振りをみせ、高橋が謝るどころか心配すらしてくれないのを見てとると、ママに泣きついた。アリサの顔を検分したママは「大丈夫大丈夫」と言い、アリサの顔を二度優しく叩いた。高橋はその様子を細めで眺めながらニヤニヤしていた。

「おい、お前、謝れ」

アリサが高橋のTシャツを掴んですごむ。高橋はその手を振り払うと「ママ、なんかあったかいの、腹減ったよ」とアリサを無視してママに甘えたような声をだす。

「アリサと別れて私と付き合う?いいもの食べさせてあげるわよ」

「ひどーい、てか、ママむかつくんだけど」

高橋、アリサ、ママのやりとりをビールを飲みながらぼんやりと眺めていたミツロウは言いようのない居心地の悪さを感じた。アットホームという言葉で形容できるその雰囲気は誰でも受け入れる懐の深さを現しているようにも思えたが、テレビドラマが醸し出す演技的な空気、ミツロウや高橋、黒田や吉川が普段見下している偽善的な空気を纏っていた。

ミツロウは自分もその演技を強制されているようないたたまれない気持ちになった。彼らはテレビや漫画で宣伝される家族を模倣し、そこで推奨される屈託のなさを外部にアピールしていた。その無意識の行動は高橋もまた自分が普段見下している人間と同じ種類の人間であることを証明していた。高橋の無自覚なその様子は彼本来の無邪気さを現していた。

ミツロウはそのことが不愉快でもあり、微かに羨ましくもあった。そしてこの場にだれか他の人間が現れることを望んだ。彼らの家庭に属さない誰かを。

「おはようございまーす」

女性の声と共に入口のドアが開かれた。外気が店内に流れ込み、高橋たちの演技が中断された。ミツロウを含めた4人の視線がそこに現れた人物に注がれる。

「あら、もうお客さんきてるの?」

「おっす」

「ああー、ヨシくんね」

女性が高橋に手を振って挨拶をする。右手に持っていたケンタッキーフライドチキンの袋を掲げママに示す。

「ヨシくん、よかったじゃない。あったかい食べ物きたよ。しかも揚げ物。ヨシくん、揚げ物すきでしょ。ユキ、ありがとう」

スキニージーンズを穿き、灰色無地のトレーナーを肘まで捲っているその女性はケンタッキーの袋をカウンターに置くと「着替えてくる」と早口で言い、店の奥に姿を消した。

「あれ、ここで働いてるやつ。ユキって名前な。もうすぐ四十のオバサンだよ」

「へー、四十でオバサンか、じゃ、私はババアね」

「ママ、ママは特別。三十代にしか見えない」

「ほんと、調子いいわね」

ママはフライドチキンを二つの皿にわけ、ミツロウと高橋の前に置いた。高橋はすぐに喰いつき、骨の周りの肉を器用に歯で剥ぎとると、そのまま続けて二つのチキンを胃に収めた。油で汚れた手をアリサがおしぼりで拭く。

「やっぱケンタはうまいな」

高橋の唇が油でてらてら光っていた。ミツロウは自分が空腹であることに気付いた。皿のライドチキンを手に取り口に運ぶ。前歯で肉を噛み切り、奥歯で咀嚼すると油が口全体に広がった。胃が蠕動する気配がした。油と塩気が食欲を刺激し、ミツロウは夢中でチキンを頬張った。

二つのチキンを食べ終えると幾分腹が落ち着いた。口に残った油をビールで流すと気分が心持ち良くなったような気がした。

「ねえママ、このドレスさあ、クリーニングにだした?」

ユキと紹介された女が奥から歩いてくる。入ってきたときとは別人のような濃い化粧をした彼女は黒いドレスをしきりに引っ張っている。ドレスの肩口からは素肌の腕が伸び、手首には銀のブレスレットが嵌められていた。

「クリーニング?ださないわよ」

「本当?なんかきつくて」

「太ったんじゃない?中年太り」

「失礼ね、これでも2㎏痩せたのよ」

ユキはブツブツと文句を言いながらソファ席に腰を下ろした。

「みんな、こっちきなさいよ。カウンターの椅子だと腰が痛くて」

ユキはひらひらと手招きをした。高橋とアリサが小声で「オバサン」と囁きあい、小さく笑う。

「あんたたち、私のことオバサンって思ったでしょ?」

「言ってない言ってない」

アリサは焦ったように大袈裟の首を振り「あっちいこ」と高橋の手を引っ張った。高橋はなにも言わずそれに従った。ただ口には笑いが残ったままだった。ミツロウは彼らの後につづき席を立った。高橋とアリサはユキの正面に座り、ミツロウはユキの隣に席をとった。

「いいね、若者たち」

ユキはミツロウを目を細めて見つめる。

「まだ肌に張りがあって、うーん、うらやましい」

「なんかユキさん自分でオバサンって言われるようなことばっかり言いますよね」

アリサは笑いをこらえながらユキに向かう。

「そうでもしないともうこの仕事できないでしょ。見た目じゃあんたたちに勝てないんだから、せめて笑わせないとね」

「イタおもしろい」

高橋がユキを指さす。ユキはまんざらでもない様子で眉を上にあげる。

「まあいいわ、ママ、私もお酒ちょうだい」

「あんまり飲まないでよ。その子たちお金払わないし、接客するだけ無駄よ」

「あら、あんたたちお金払わないの?そんなんじゃロクな大人にならないわよ。苦労しなさい、苦労」

「えー、お説教ですか?それよりカラオケしましょ、カラオケ」

アリサがカラオケのリモコンに手を伸ばす。

「オレ、エグザイルな。『道』、『道』いれろ」

アリサが手慣れた様子でリモコンを操作する。高橋はユキから渡されたマイクを右手に持ちソファに深くもたれかかる。音楽がはじまり、店の中央にある画面に映像と歌詞が映しだされる。高橋は白から赤へと色が変わっていく歌詞を懸命に追いかけ、流れる音楽に調子を合わせる。途中で何度も咳払いをし、声が裏返っては舌打ちをした。アリサとユキは気にする様子もなく手拍子で盛り上げる。

音楽が終わると高橋は首を傾げながら「今日、声が出ねえ」と吐き捨てるように呟いた。アリサが隣でかいがいしくおだてている。ミツロウは暗くなった画面をぼんやりと眺めていた。

「次、私歌うわ」

ユキが立ち上がる。画面の前に少し足を広げて立ち、マイクを両手で握りしめる。そして音楽が流れる。ゆったりとしたリズム、柔らかいメロディー。

 小さい頃は神さまがいて
 不思議に夢をかなえてくれた
 やさしい気持で目覚めた朝は
 おとなになっても奇跡はおこるよ
 
 カーテンを開いて静かな木洩れ陽の
 やさしさに包まれたならきっと
 目にうつる全てのことはメッセージ

高い透き通った歌声だった。ミツロウはユキの身体全体をながめ、聞こえてくる言葉を頭の中で反芻した。声と言葉が心の奥に繋がり鼓動がはやくなった。胸が締めつけられ、目に涙が溜まっていった。ミツロウは泣かないように必死にこらえながら歌うユキの姿から視線を外さなかった。

歌声が消え、音楽が閉じるとユキは深々とお辞儀をした。

「なんだよ今の歌。AKB歌えよ、AKB」

「ユーミンぐらい知ってるでしょ」

「いいからAKB、AKB」

「じゃあ、私歌う。ヘビーローテーション」

アリサが曲にあわせて身体を動かし、子犬のような声で歌う。高橋は躍るアリサに興奮しているのか野太い歓声をあげる。

しかしミツロウの耳にはアリサの歌声も高橋の歓声も意味のある言葉として響かなかった。数分前にユキが歌った曲のメロディーが頭の中で何度も繰り返されていた。そしてユキの歌声。

ミツロウは覗き見るようにユキに視線を向けた。ユキはその視線にすぐに気付くとニッコリと笑った。ミツロウは心の中で祈りの言葉を唱えた。

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