【長編小説】父を燃やす 7-6

真治は千葉のギャラリーで買った絵を燃やした。その燃やすという行為は真治に再び満足感を与えた。それは自分の中にある穴をすっぽりと埋めてくれる確かな満足感だった。

しかしその満足感は日が経つに連れて薄れていった。いつしか空虚感が心を支配した。その心に空いた穴には一対の目があった。その目から発せられる視線に真治はおびえた。そこに真治を非難する意図はなかった。ただ冷たく真治を観察する視線があった。

真治はその視線を感じる度に千葉から絵を買った。そして燃やした。

真治が燃やした絵の作者は必ず売れた。どうしてかはわからなかった。ただ事実として真治が購入し、燃やした絵の作者は高い評価を得るのだった。

千葉は真治の審美眼を褒めたたえた。そしてそれを自分の周囲に吹聴して回った。いつしか真治の名前はアート業界で有名になった。買えば必ず売れる。

その噂はアーティストの耳にも届き、多くの現代アートを志す若者と知り合いになった。彼らは真治の目にかなうような作品をつくろうと躍起になった。真治が買えばアーティストとして自己実現できるのだ。

真治の判断はいつしか現代アート業界の基準となった。真治は持ち込まれるアート作品を判定し、購入し、そしてそれを燃やし続けた。

人生は着実に前に進んでいった。「株式会社GOLD INVOCATION」は売上を伸ばし、経営基盤は安定していった。子供たちは目指していた学校へ進学し、妻は念願のオーガニックカフェを青山に開店した。母は老後を友人たちに囲まれ穏やかに過ごしている。陽菜もときおり妻のオーガニックカフェを手伝いながら豊かな結婚生活を満喫している。

またコレクターとしての名声を手に入れた真治はいくつかのアート団体に呼ばれ、そこで役員に任命された。真治の美を判断する眼識と現代アートに寄与する姿勢が多くのアート業界の人間に認められ、求められた。

千葉は真治が所持している作品の展覧会を開くことを勧め、真治はそれを曖昧に断っていた。千葉は真治が購入した作品を誰にも見せないことを残念がっていた。優れた作品をもっと多くの人に見てもらうこともコレクターの一つの役割だと真治に進言したが、真治は首を横に振った。

「あのような優れた作品たちを冷たい真っ暗な部屋に押し込めておくのはもったいことです。たまには作品たちに光を当ててやるべきです」

真治は東京湾岸に大きな倉庫を購入していた。千葉には購入した作品はそこに保存してあると言った。

その倉庫に入る鍵は真治しか持っておらず、誰もそこに入った者はいない。千葉は真治が作品を誰の目にも触れさせないことを不思議に感じていたが、その倉庫の中にある作品たちを想像すると幸福に包まれるような気がした。

便器を描いた雨宮雪子の作品からはじまり、自分が紹介し、真治が選んだ多くの作品たち。その作り手たちの多くが海外で活躍している。倉庫の中の作品に値を付けるとしたらどのくらいになるだろうか。その価値をわかっているだけに千葉はそれらが一堂に飾られたその倉庫に入ってみたい欲望を抑えることができなかった。

真治はそんな千葉の欲望をひしひしと感じながら、実際にその倉庫に入った千葉がどんな反応をするか想像し、心の中で笑うのだった。

真治は新しい作品を購入するとその倉庫に一人で向かう。そして鍵を開け、真っ暗な部屋の中に入る。明かりをつけるとがらんとした部屋が浮かび上がる。なにも置かれていない部屋。その隅に黒い灰が山となっている。

真治はその灰の山の上に作品を置き、ライターで火を点ける。パチパチという音とともに炎がゆらゆらと揺れ、灰色の煙が換気扇に向かって立ち上っていく。

真治は灰になっていくその作品につくであろう値を思い浮かべる。だれかがその作品に価値を見出す。価値を帯びたそれは商品となり、市場を潤す。価値を求める人間を飲み込んでいきながら膨れていく市場。

自分は市場に復讐をしているのだろうか。違うと真治は思う。市場に恨みなど持っていない。自分は市場の中の歯車なのだ。そのために「株式会社GOLD INVOCATION」はある。市場の、資本主義の中で求められる歯車になることによって今の自分は成り立っているのだ。

では、なぜ自分は絵を燃やすのだろうか。満足感が真治の心を支配する。それは絵を燃やすことでしか得られない満足感だった。この満足感は一体なんなのだ。

炎が少しずつ小さくなり、作品が灰の山と同化していく。それは真治を観察する一対の目を隠すことなのだ。その視線だけが真治がおびえる対象なのだ。

作品はなくなり灰の山が少しだけ大きくなる。倉庫にあるアート作品の灰の山。これはこれで一つのアート作品になるのではないか、真治はそう思って笑う。千葉はそれを聞いてなんと言うのだろう。満たされた心が未来の欠落を予言するかのように小さく震える。先取りされた欠落が欲望を喚起する。

次はどれを焼こうか。真治は明かりを消し、倉庫に鍵をかける。そして千葉のギャラリーへと車を走らせる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?