【長編小説】父の手紙と夏休み 10

夢を見た。黒い大きな犬の夢だった。犬はサルスベリの木の周りをぐるぐるとまわっていた。小さな女の子が犬に近づき右手を差し出すと犬はその右手にかみついた。奈々子は両手で犬の口を開き、女の子の手を引き抜く。犬の口から赤い血が滴っている。女の子の右手には穴が開き、そこから無数の虫が這いだしてくる。虫は女の子の手から地面に落ち、そしてそこで死んでいった。地面には黒い虫の死骸が山となって積み重なる。女の子は笑いながら奈々子の名前を呼んだ。

奈々子が目を覚ますと母の呼ぶ声が聞こえた。時計を見ると時間は13時30分だった。重たい身体を起こし、大きく伸びをする。Tシャツが汗でぐっしょりと濡れていた。夢の名残りが頭にこびりついていた。奈々子はぼんやりと机を眺めながら頭を現実に慣れさせていく。ペン立て、参考書、そして『ノルウェイの森』。机の上にある物を順番にゆっくりと眺める。それらの物は少しずつ奈々子の中に浸透し、そして奈々子をいつもの世界に連れ戻していく。大きく息を吸い、吐きだす。母の呼ぶ声が聞こえる。「いまいくー」奈々子はそう叫ぶとベッドから起き上がった。

洗面所で顔を洗い、キッチンで母と向かい合って座る。

「よく寝てたね」

母はお茶を飲んでいた。紺の湯飲みから薄い湯気がゆらゆらと立ち上っている。

「うん、ちょっと休憩のつもりだったんだけど」

「起こしちゃ悪かったかしら。でもお昼が片付かなくてね」

「ううん、いいの。勉強もしなくちゃいけないし」

母はお茶を一口啜ってから立ち上がり、テーブルに昼食の用意をする。

「またそうめんだけどいい?」

「うん、いいよ、なんでも」

母は少し肩をすくめ、冷蔵庫からそうめんの入ったタッパを出し、水で流して皿に盛った。奈々子は出されたそうめんを黙々と啜り、きゅうりのお新香をかじった。母も黙って奈々子が食べる様子を眺めていた。冷蔵庫の唸る音が部屋に響いていた。

「シャワー浴びるね」

食事を終えると奈々子は椅子から立ち上がって母に言った。

「お風呂ためてないけど」

「大丈夫」

母は奈々子の皿や湯飲みをシンクに持っていき、洗いはじめた。その後ろ姿を夏休みに入ってから何度見ただろう、奈々子は急に何度も同じ日を繰り返しているような感覚に襲われた。カレンダーで今日の日付を確認する。8月20日、水曜日。確かに今日はその日のはずだけど、奈々子は自分の認識に自信が持てなくなり「今日って何日だっけ」と母に聞いた。

「20日でしょ。もうすぐ夏休み終わるわよ」

同じ日を繰り返しているうちに夏休みは終わろうとしている、奈々子はその事実がうまく理解できなかった。カレンダーの日付や時計の針は時が進んでいることを示しているが、それはカレンダーや時計にみんなが騙されているだけで、本当はなんにも進んでなんかいないのではないか。毎日が同じことの繰り返し、勉強とそうめんの繰り返し。Tシャツの汗のにおいを嗅ぎながら奈々子は風呂場に向かった。

シャワーから勢いよく流れ出るお湯を顔に浴びながら奈々子は自分にとってのリアルとはなんだろうと考えた。繰り返される日常は確かに自分の現実ではあったが、こうも毎日が同じだと現実感が次第に薄れてくる。

「ゲシュタルトほうかーい」

奈々子はシャワーに向かって叫んだ。口の中に温かい水が流れ込み、それは喉を通って胃の中へと落ちていった。少し咳きこんだが、気分がよくなった。

よくなった気分は自然と『ノルウェイの森』を求めた。『僕』と『直子』と『緑』が言葉の連なりとなって頭の中で劇を繰り広げていた。その群像劇は奈々子のループする現実よりもリアルだった。

リアルとは自分の疑問や関心の核心をついてくる出来事であり、それが現実なのか虚構なのかは問題ではないのではないか、ふとそのようなことが頭に浮かんだ。

『ノルウェイの森』を読む、そしてそこに父の手紙を重ね合わせる、その行為の中に奈々子のリアルはあった。奈々子は薄ぼんやりとした自分の影の輪郭をはっきり認めることができたような気がした。肌を叩くお湯がいつもより力強く感じた。

濡れた身体をバスタオルで拭き、髪をドライヤーで乾かす。風になびく髪からシャンプーの香りがし、肌は熱をもって熱かった。頭が冴えて気分が良く、神経が研ぎ澄まされているような気がした。

よしよし、読書読書。バスタオルを首にかけたまま奈々子は自分の部屋へと戻ると机に向かい『ノルウェイの森』の下巻を手に取った。こんなにもなにかを求めたのははじめてかもしれない。高鳴る心を抑えながらゆっくりページを捲る。

『夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。』

目と頭と心が文章でいっぱいになる。そして奈々子は長い長いトンネルを通るようにして物語の世界へ落ちていった。

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