見出し画像

「転勤族」耐えられない「軽さ」

両親は転勤族だった。

産まれて小学校低学年まで香川で過ごし、その後鹿児島、福岡と引っ越し。
長男の自分が中学に上がると父親は単身赴任、毎週のように家に帰ってきてたから、あんまり違和感なかったけどね。今考えるとすごいなあの人。

よく転勤族の子供は可哀相みたいな言説を聞く。
転勤族に合う合わないがあることは認めるが、一概に可哀相みたいに言われるのも心外だ。

あくまで自分の話だが、新しい環境が苦じゃなかったり、家族団結感が強かったり(これは両親の成熟度合いにも大きく左右されそう)、クソガキのわりには少し視野が広かったり、考えると今の自分を構成する大切な要素の原石になっていると感じる。

そんな俺も、大人になり自ら転勤族を選んだ。転勤族二世。赴任後、東京・横浜・熊谷・古河・水戸と関東近辺を6年間うろちょろしている。勿論大変なことは多々あるが、やっぱり肌に馴染む。根っからの根無草男である。

転勤は良くいえば会社命令という外的要因に任せて、環境を変える機会を与えてくれる。ときに望まないタイミングや場所かもしれないけど、それぐらい強引じゃないと自分は現状維持を求めてしまう。
そして1箇所に居続けることも、今の自分には耐えられない。きっと転勤族じゃなかったら転職とかしてたと思う。転勤は人生の重荷を外す、ある種自己防衛なのだ。

大企業にぶら下がって、住む場所まで管理されて所謂”今どき”の選択ではないかもしれないけど、そんなに強くない自分はやっぱり何かに依存しないと生きていけない。自分としては会社の方が、血縁や地元、藁をも掴むような成功物語よりも何かと切り離し易くて、依存先として健全だと思ってるんだけどなぁ。世間と少しずれてるのかもしれない。

なんで急にこんな話をしだしたのかというと、30という大台が見えてきて将来を考えると転勤族というのは、結構足枷に感じる場面が増えてきた。
昔付き合ってた人に会社辞めて欲しいって言われたり、知り合ったばかりの女の子に転勤族は本命にならないって断言されたり。
余裕があるように見えるから、有難いことに異性も相手にはしてくれるんだけど、どうも本命って奴にはならないらしい。

これまでは”こっちから願い下げだ”ぐらいの気持ちで生きてきたんだけど、最近は傲慢すぎるのかなぁと1mmぐらい思うようになってきている。

最近こんな本を読んだ。

押しも押されもせぬ名著。
冒頭、パルメニデスを引用し軽さが肯定的で重さが否定的だと言いはじめ、すぐニーチェの永劫回帰を引用し、繰り返される人生においては、ひとつひとつの行動が限りなく「重い」と言い始める。(なんてこった)

この物語のメインテーマは人生の「重さ」と「軽さ」だ。メイン筋の各地方で繰り広げられるラブロマンス、ときどき入る筆者の神視点エッセイ、プラハの春という外的要因でさらに大きく動き出す展開、不意に読者は結末を知ったうえで、物語は佳境に引っ張られていく。

転勤族の、いや自分の人生は「軽い」のだろうか。
心身ともに抱え込みすぎてパンクした経験のある自分は、あるときから軽さこそ「善」とはいわないが「良」ぐらいのイメージで生きてきた。
そのなかでテレザのような「重し」を見つけることができるのだろうか、そもそも必要があるのだろうか。
自分が誰かの「重し」になることがあるのだろうか。
果たして人生の「軽さ」に耐えきれるのであろうか。

Einmal ist keinmal.(1度は数のうちに入らない)

もう1度この本を読み直してみよう。

生き方を見直す時期に差し掛かっているのかもしれない。
人生のメインストーリーに飽きてきたのかな~
1度ぐらい結婚してみるのもいいのかもしれないな。
相手はいないけど/(^o^)\(ナンテコッタイ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?