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北摂・能勢にかえる①【Uターン田舎ぐらし】

私は生まれこそ兵庫ですが、物心がつく前に家族で能勢町に引っ越してきました。能勢で育ち、大人になり一度能勢を離れた私ですが地元・能勢町へ戻ることになりました。そんなお話を記していきたいと思います。

大阪のてっぺん・能勢町

能勢町は大阪府の最北端に位置し、標高が約200mあり、市内と比べ気温が5〜6℃低いことから「大阪のチベット」「大阪の北海道」「大阪の軽井沢」などと呼ばれています。面積は大阪府内の市町村で5番目に広いのですが、そのほとんどが山林・田畑で構成されています。人口は2022年々現在、約9000人。

春は山桜、5月になれば田植えがはじまる。
夏の青空と山の緑のコントラスト。
田んぼを走る夏風の涼しさ。
秋になり次第に山が赤やオレンジに色づき、たわわに実った稲がさわさわと風に揺れる。
冬になれば雪がつもり北の山々が白化粧していく。

そんな四季の移ろいを五感で感じ取れるところです。

夜は窓をあけると鹿の声が


なぜ戻ろうと思ったのか

一度離れて知った『良さ』

私は幼・小・中・高と十数年間能勢町で過ごしました。山遊び・川遊びも、虫取りも、学校の裏山も、田んぼ・畑ばかりの風景も、当たり前のように育ってきました。友人の中には兼業農家さんのお家もたくさんあり、父が趣味で釣った魚とお米や野菜、栗などと物物交換していただいたりと、地産地消も当たり前。友人宅の田植えや畑仕事をお手伝いしたりもしました。
そんな毎日を送っていたのですが、大学進学を期に、祖父母宅に寄宿することとなり、はじめて能勢町から少し離れた生活を送ることとなりました。
大学は都会にあり、交通の便も良し、豊かな暮らしで魅力的でしたが、初めての夏休みに能勢の実家に帰省した際に

え、能勢って空気美味しいやん

と感じたのです。
感動でした。
今まで当たり前で、寧ろそれ以外を知らなかったのが、外に出て初めて良さを感じました。

それ以来、帰省するたびに「能勢はやっぱいいなー」と感じて、また忙しい日々に戻っていきました。


能勢で働き、そして離れる

大学では教職過程を専攻していたので、教師の道のみをめざしていました。
(教師になりたくて教職を取っていた、が正解ですね。)
しかも通っていた大学は、教育実習に行くには就職活動をしないことが条件(うちだけですか?)だったので、就職活動を全くせず、教職にプラスになるよう、母校に押しかけボランティアをしたり、子どもたちと触れ合う活動へ積極的に参加していました。
いざ、教員採用試験に挑みましたがあっけなく散り、講師登録するもなかなか連絡も来ず、ギリギリまで進路が決まりませんでした。

そんな焦っていたある日、昔担任してくださった先生からお電話をいただき、なんと地元能勢町で教育関係のお仕事をさせていただけることに。
恥ずかしながら押しかけボランティアが功を奏しました。

そんなこんなで2年勤めさせていただき、その後3年間は非常勤ですが講師として働くことができました。
(またこの話はどこかで…)

夢が叶い、充実した毎日を送っていたのですが、プライベートな理由で能勢を離れなければならなくなりました。

仕事も転職です。

また教師をしたいと思っていたのですが、せっかくだからいっそ一般企業を経験してみようと発起。
学生時代から続けていた卓球に関する仕事を探しました。
1つ、運良く見つかり、そして運良く(本当に)働かせていただけることになりました。

働かせていただいたのが4年と少し。様々なところのいろんな方とお仕事をさせていただき、繋がりができました。(再会もありました笑)
その間に結婚し、親が死別してしまい、能勢の実家が空き家になってしまいました。


再び能勢へ

夫婦お互いの仕事もあり、実家は半年そのままの状態でした。控えめに言って足の踏み場もない状態。どうしようか、片付けはしないとなー、とは話していたのですが、そんな中で、能勢の家に住めないかという話になっていきました。主人の仕事も工夫をすれば能勢でもできる、私は通うことも考えたのですが、最寄りの駅まで車で20分の実家。現実的に無理だな…と考えていました。
そんなときに主人が、

能勢で卓球を仕事にしてみたら?

と提案をしてくれたんです。
言うのは簡単ですが、実際は難しいもの。
最初は消極的でしたが、現実問題として本気で考えてみたら、難しいけどやってみたい、と思うようになりました。
(この話は次回にでも…)
あとは主人が背中を押してくれ、一緒に頑張ろう!と意を決し退職。


まだ肌寒さ残る2022年5月、3匹のわんこたちを連れ、能勢町へ戻ってきました。



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