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町屋良平「体重」

ボクシングが好きだ。ポカポカ殴りあって、強い方が勝つ。単純で好きだ。
なのに時々ヘンテコな判定があったり、毒入りオレンジがあったりで、試合が台無しになる。プンスカ怒るが、それも、勝ちゃあいいんだろ的な、人間の一番醜い面が見られて面白い。
そう言う意味で、井上尚弥vsネリ戦は燃えた。ネリは、山中慎介という名選手と二度戦った。一度目はドーピングして勝ち、二度目は体重オーバーで、でも大人の事情で試合は行われ、やはり勝った。負けた山中選手は引退した。
なんて汚い奴だと思ってたから、井上がネリをマットに沈めた時はスカッとした。

本作にはボクサーが出てくる。減量中に風邪をひき、腰も痛め、減量がうまくいかない。ボクサーは無理して体重を落とすのを諦め、体重オーバーのまま試合に出ることにする。勿論ノーコンテストだが、試合自体はできる。試合は興行なので、やめるという選択肢はない。
もっと悩むかと思った。が、そんなでもない。ジムの会長にその旨LINEすると、OKのスタンプが返ってくる。
なんだこれ。
このボクサーは、嫁さんが出産で入院してる間に不倫していて離婚確定である。
な、なんだこれ。
あ、いや、これはきっと、この小説は所謂ダメ男小説で、今からこの男のダメダメさの波状攻撃がくるんだ、と思っていたら。
いや、視点人物がくるくる変わる。ボクサーの嫁。嫁の弟。その娘。息子。自分の息子。途中で、13年後が挟まるから、みんな満遍なく語る。
その中でボクサーは負けて引退後もYouTuberとかトレーナーとかして結構稼いでいるとか、離婚した嫁は会社で出世するとか、息子はなんかぐだぐだ生きてるとか、嫁の弟夫婦も離婚してて、彼は子供たちに軽蔑されながらも暮らしているとか、姉ちゃんはちょい不良で高校出たら家も出ようと思っているとか、弟くんは中学から寮に入るとか、バラバラである。絆の「き」の字もない。じゃ、ギスギス悲惨かというとそうでもない。みんな勝手に生きている感じだ。軽い自省はするが、すぐにやめる。元ボクサーが元嫁の弟の手を握ったのには驚いたが、かといって進展もない。
なんなんでしょ、と思う。
筋としては、元ボクサーが15の子供をつれて、元嫁の弟の家に行く。姉ちゃんは留学してて、そこには息子しかいない。元ボクサーは、気のある元嫁の弟に、夕飯鍋にしましょうと提案する。元嫁の弟は、元ボクサーがそのつもりですっかり用意してきたことをわかっいて、今日は酒を飲むのをやめておこう、と長い息を吐くところでおわる。
かといって、たぶん進展はないだろうと思う。

作者は、ボクサー小説で芥川賞を取った。読んでないが、選評ではボクサーのストイックさに選考委員がやられたらしく、積極的な反対はいなかった。基本文系の人が多いので、スポーツ、ストイックとくれば、参っちゃうのだろうか。佐々木幸綱のやたらマッチョな短歌が受けたのと同じだろうか。
でも、本作はまるでマッチョではない。そもそもボクシングの場面は出てこない。ボクサーと言えば、「真夜中のボクサー」ていう高橋三千綱の小説があった。あれもボクシングの場面なんか出てこなくて、なんかボクサーが野宿するよな小説だったなあ。でも、少なくともストイックさはあった。
この小説がの題名は「体重」である。スポーツのなかで、こんな過酷な減量を強いるのはプロボクシングの世界だけだ。不健康極まりない。極まりないが、冒頭で易々と「体重」を諦めてしまうこの男は、端からボクサーではないのかもしれない。減量がボクサーのアイデンティティそのものなら、男はボクサーではない。それはこの一族全員に言えることで、人間としてのコアがない。そうであっても、のほほんと絆の「き」の字もなくても、人間は生きられてしまう。そんなことを作者は書きたかったのか。
考えてみれば、僕らはみんなそうかもしれない。のほほんと生きてしまうのだ。それに満足はしてない。生きられてしまうから、人生としっかり切り結べない。そのジレンマがどこかにある。ただ生きていることへの。
この一族は幸せではない。が、人生は続く。長いため息をつきながらも、生きるしかないから。

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