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角田光代「神様ショッピング」

結婚して子供を望んでいた吉乃に子供はできなかった。できない体だった。ある日、仕事関係で講演を頼まれた吉乃は、自分でも意識せずに過保護な母親の子供への過干渉をなじる話をする。不思議な高揚感があった。後日、吉乃はスーパーで行方不明になった女児のニュースを見る。母親が自分の講演会に来たわけでもないのに、吉乃は深い罪悪感に苛まれ、赦しを求めて寺社を訪ねはじめる。国内から海外まで。しかし、吉乃はどの寺社教会にも違和感を感じ、救われることはなかった。

まず、よい文章だと思った。書いてあることがスゥーと水のように染みてくる。大仰な形容詞などない、淡々と事実や思いを重ねる文章である。最近、源氏物語の現代語訳をされたと言う。読み切れるかわからないが、ぜひ読んでみたいとは思った。こうした水が染み込むような文章で、源氏をどう訳したのか見てみたいと思った。

ご利益赦しを求めて神様を巡り歩くのを「神様ショッピング」というのだそうだ。なぜそんなにも巡るのか。きっと訪れて、ああ、ここも違う、ここもダメだったと思うからだ。そしてまた巡る。ここでも赦しは得られない。ここも自分のための神様ではなかった。そしてまた巡る。

主人公は、自分の思いを人には言えない。夫にも言えない。言ってもわかってもらえない、いやそもそも相談するとか、分かち合うとかと違う、自覚する罪だと思っている。

逆説的に言えば、赦されないからこそ、主人公は生きられている。その罪を自覚し赦される日のくることを信じて、まだ見ぬ神に出会える日を心待ちにするから、主人公は生きられている。

主人公には何もない。そして、子供以外の全部がある。優しい理解ある夫。仕事。友人たち。子供以外の全部がある。が、それは心の支えにはならない。

主人公は子供が欲しかった。
結婚して子供を作って産休に入って復職と同時に異動届を出して・・・と、人生を送りたかった。

だが、いくら読んでも、主人公が子供が好きだとは感じられない。そこにあるのは、子供のいる自分の人生設計が破れたことの喪失感としか読めない。

だから、腹いせのように捲し立てた講演にも、不明になった女児の原因がそれだと勝手に思い込むことにも、神様は救いの手を差し伸べてはくれない。

なぜなら、例えば鬼子母神は一千人の子供を産み愛した者だから。人の赤子を食らうことを釈迦に諭され、他人の子も愛せるようになった者だから。
鬼子母神は、自分に子がなくて他人の子を食ったのではない。子がないことからの嫉妬やっかみで食ったのではない。だから、主人公は救われない。

どうすればいいんだろうか。どうすれば主人公は救われるのか。
私は救われなくてもいいんじゃないかと思った。
人は誰しも罪を抱えて生きている。その罪の自覚こそが、毎日を生きるということなのではないか。

小説は、教会前の物貰いの女を宗教画のようだ、と主人公が思うところで終わる。金銭を施されることは、生きることを許されることだ。自分への許しを求めて、女は容れ物を掲げる。
だが、それは永遠に許されることではない。その場しのぎの、一回きりの許しだ。
しかし、祈るとはそういうことではないか。だから、信者は祈り続ける。今日も明日も。生きる限り。
主人公も巡り続ければいいと思う。許しを乞いに来ました、と何度も。

それが例え誤解であっても。

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