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保坂和志「書く、前へ前へ」

2ページのエッセイである。保坂さんは、以前、好きな作家だった。「この人の閾」で芥川賞をとって、読んだらとても面白かった。で、「プレーンソング」まで遡って、「季節の記憶」まで読んだ。「カンバセイション・ピース」で挫折して、それから読んでない。
「書きあぐねている人のための小説入門」という本もあって、とても面白かったが、内容は忘れた。
保坂さんは、小島信夫をかっている。彼の小説をやたら褒める。ここでも褒めている。
どこがそんなにいいのかというと、彼は結論を求めずに直感で書いている、というのだ。書いているその瞬間瞬間に思考があり、それを辿り考えるのが面白いらしい。それがわからない奴が、小島信夫を締まりのない駄文だとか言う、というのである。

私は小島信夫を読んで締まりのない駄文だ、という感想を常に持つ。読むたんびに、もう二度と読むまいと思って、また読む。とうとう「別れる理由」まで読んだ。冗漫だと思った。だいたいどれも小説がちゃんと終わってない。

保坂さんによると、それが駄目なのらしい。我々の思考は、結論ありきで考えがちだ。例えば人類史であるなら、農耕を始めたという結論ありきで、それ以前の歴史を語る。これは違うのではないか、と。農耕が始まる前の歴史は、農耕がないのだから、農耕が始まるという結論に向かって流れてはいけない、と。その時々の思考判断があったはずだから、それが大事だと仰りたいらしい。
保坂さんの小説観もそうで、その時々の思考の流れを書くのが小説だと思ってらっしゃるらしい。「意識の流れ」を更に進めた「思考の流れ」と考えればいいのか。それがオモロい、と。

うーん。まあ、オモロいちゃあ、オモロいが、それって小説? て学のない私は考えてまう。
そりゃ、小説は何をどう書いてもいいもんだ。別に殺人事件が起きなくても、別に深窓の令嬢が拐われなくても構わない。もっと言えば、事件なんて起きなくてもいい。なんも起きなくてもいい。それでも、小説なんだからなんか読みどころが欲しい。実際のドラマでなくて、それは思考のドラマであっても無論いい。が、結論なしの、他人の直感的な思考を辿るだけって、そこまでオモロいものなんかなあ。
哲学書だって、一応結論あるでしょ。あんまし学ないから偉そうに言えんが、例えば、
「コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)」懐疑論てのがあって、世界全部を疑おう思うたら疑える。やけど、ただひとつ、その疑ってる自分は疑えない。結論じゃないですか。
でも、小説はそれは違うと保坂さんは言う。結論は考えずに、瞬間瞬間の思考を、ライブ感を持って突き詰めていくのが小説だ、と。まあ、そんな感じ。「前へ前へ」は、そういう意味らしい。

うむむ、わかるようなわからんような、と思いながら、他の人のエッセイを読む。町田康さんのエッセイがある。恐らく2ページの分量で依頼されたのだろうに、彼のだけ3ページある。分量を守ってない。自由だ。「創作の小さな真実」がお題だが、町田さんは、その「創作」にこだわって、連想を飛ばす。

創作
創作ダンス
創作箪笥
創作料理

わはは、と笑っているうちに次の一文が出てきた。

創作料理は自分自身の舌と直感だけを信じ、取り入れるものは積極的に取り入れるが、自分にとって無意味なものは躊躇なく切り捨てる

「直感」がでてきた。創作料理は、伝統料理でもなく民族料理でもなく前衛料理でもなく現代料理でもないのだそうだ。自分だけで突き詰めた料理、それが創作料理。

なるほどねえ。偉い作家さんは、目指すところがよく似てる。町田さんもなんか書きながら考えてる感がある。だから3ページになっちゃったんだろうか。その思考の流れは確かに面白い。

いろんな小説観があるな。
「この人の域」に達する道のりは遠い。

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