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アイスネルワイゼン三木三奈2

第2場面 小林との電話会話

第2場面は、琴音と小林の会話で進む。登場人物の背景が、ここでわかってくる。
ただし二人は知り合いであるので、1から10まで語られることはない。互いがわかりきっていることは語らない。つまり、不自然な説明調の会話がない。更に地の文で登場人物を説明することもないので、読者は、会話の端々から、パズルのように情報を拾い集め、組み立てなければならない。
ここには、以下のような情報がある。

 琴音と小林は三十過ぎで、琴音は独身、小林は既婚者である。二人は音楽系の高校の同級生だった。ともにピアニストを目指していたが、そこまでの才能はなかった。二人は大学に進学し、社会に出てもピアノに関わる仕事をしている。ピアノ発表会の運営は小林がしている。琴音の母は自分の夢を琴音を託したが、中学の時に諦めた。
 同じ同級生にキティ好きの加藤という生徒がいて、頭抜けた作曲の才能を持っていた。しかし、親が破産し、卒業後工場の事務員となった。
 小林は自分の代わりに、歌手よし子の伴奏を琴音に頼む。その日、小林は夫婦で旅行に行くからだ。ピアノレッスンの生徒がやめれば、収入も減るだろうから、伴奏のバイトはするべきだと小林は忠告する。演奏日時は、クリスマスイブの1時から2時半。場所は茨城のケアホーム。
 琴音は25日に約束があり、24日の5時にも中学校時代の友人優の家に行く予定がある。優は既婚者で小学校1年の子供がいる。子供へのクリスマスプレゼントには地球儀がいいと、小林にアドバイスされる。伴奏のアルバイトは、時間的に充分間に合うと、小林に半ば強引に決められる。
 まだあるが、もう書くのが嫌になった。
何が言いたいかと言えば、これだけの小説の展開に必要な情報を、この場面だけで、作者は自然に読者に与えていると言うことだ。
普通、説明を始めると、小説内の時間は止まる。これらのことを物語が動き出す前にまとめて説明すると、それが終わるまで読者は辛抱強く待たなければならない。読者に我慢を強いる。
だから普通、小説家は、物語を動かしながら、無理のない程度に説明すべきことを分割して埋め込む。
しかし、三木三奈はその方法をとらない。情報の提示、説明という難問を、作者が地の文でするのではなく、場面内で登場人物に語らせるという方法で乗り越えようとする。
 こうすれば、物語の停滞はなくなる。必要な説明の間、登場人物が一時停止し、説明が終了して、また動き出すという不自然さを回避することができる。読者に、ああここは説明かあという、イラつき感を与えない。もういいよ、だからストーリーを進めてよ、というフラストレーションを与えない。
じゃ、全小説家がこの方法を採用すればいいようなものだが、この方法を採用すると、この場面が膨大な長さになる恐れがある。会話の描写には、普通、無駄なやり取り、いらない合いの手、相手の言葉への反応、内面の声、感情の揺れ、それに伴う表情、仕草などを含まれる。だが、そこまで書けば、この場面だけが異様に膨らむこととなる。小説全体のバランスが崩れる。
そこで作者はバッサリやるのだ。発声している言葉しか書かないという荒技に出るのだ。登場人物たちが、会話をかわす中で何を思ったか。声にした言葉と裏腹に何を考えたか。どんな表情でそう言ったか。その時の仕草はどうであったか。それらを全て書かないという手にでる。ほぼ会話の言葉のみで場面を作りあげる。それがなるべく自然に見に見えるように、二人は直接会わない。二人の会話は電話でされることとなる。

         つづく




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