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【短編小説】酔っ払い

 千円札を握りしめて、夜の道を走った。駅に近づくにつれ、人通りが多くなる。通りを折れて路地に入ったところで走るのをやめた。目の前に赤提灯、縄のれんを潜って引き戸を開けた。大人たちの笑い声と煙草のにおい。カウンターの端に父ちゃんが突っ伏していた。
「おう。タツ坊か。ヤッさん。お迎えがきたよ」
飲み屋の親父さんが声をかける。でも、父ちゃんは眠ったままだった。
「おっさん。お迎えだってよ」
隣の男の人が、父ちゃんを揺する。
「こっちも商売だから、飲ますけどね、毎度、寝込まれちゃあ、席がまわんねえよ。ヤッさん、勘弁してよ」
親父さんも、父ちゃんを揺する。
「これ」と千円札を差し出した。
親父さんは受け取ってお釣りをくれる。ようやく目を覚ました父ちゃんは俺を見て、おう、と言った。
「まったく、困ったもんだねぇ」
頭を下げる。
「いや、タツ坊が謝らなくてもいいんだよ」
もうひとつ頭を下げて、父ちゃんの手を引く。千鳥足で立ち上がり、ごっつぉーさん、と叫んでいる。カウンターから離れる時、小鉢をひっくり返し、箸を落とした。
「あ、すいません」
また、頭を下げる。
「いいよ。やっとくから、ヤッさん頼んだよ」
戸を閉める時、後ろで親父さんと客が話してるのが聞こえる。
「あの子、幾つ?」
「タツか。さあねぇ、小六じゃなかったかな」
「あのおっさん、母ちゃんいんの?」
「前は、よく迎えに来てたけどね」
腰の辺りを支えながら歩く。でも、体重を全部預けられると支えきれない。転びそうになりながら、今日はなんとか家まで辿り着けた。

「ただいま」
「おかえり」
奥で母ちゃんの声がする。赤ん坊のハツコは今日は泣いてない。
 上り框で何とか靴を脱がして、父ちゃんを部屋に上げると、もうひっくり返ってイビキをかいている。
「お金、足りた?」
「うん」と返事して、茶箪笥の引き出しを開けて、財布に釣りをしまう。
「お釣り、入れといたから。ハツコ、寝た?」
「今寝た」
四つん這いになって、添い寝している母ちゃん越しにハツコを見る。
小さな口をもぐもぐさせてハツコは寝ている。
「おっぱいの夢見てんだ」
「ごめんね。今日も行かせちゃって」
「いいよ。母ちゃんいないとハツコが泣くもん」
ずっと見ててもハツコは見飽きなかった。

 朝、水音で目が覚めた。たたきの台所をみると、蛇口を全開にして、頭から水を被っている父ちゃんが見えた。隣のガス台で母ちゃんが味噌汁を作っている。
ハツコを見た。音にもめげず、よく寝てる。
「飲みすぎた。朝飯いらねぇ」
「だめです。食べなきゃ、体が持ちません」
「わかったよ」
五分刈りの頭と顔をタオルでゴシゴシ拭きながら、水をガブガブ飲んで、部屋に上がってくる。俺は布団を畳んで押し入れに入れる。父ちゃんがちゃぶ台を出して座り込む。が、すぐに「新聞、新聞」と玄関に取りに行き、また座って新聞のスポーツ欄を熱心に読む。
「堀内すげえな。高校出てまだ二年だろ」
ちゃぶ台に、飯と味噌汁と卵焼きが並ぶ。母ちゃんは父ちゃんの弁当を詰めるために、また台所に立つ。
「タツ。今日学校休め」
「何で」
「間に合わねえんだよ」
「俺、シンナー嗅ぐと頭痛くなる」
「そんなん慣れたら大丈夫だ」
「ダメよ」母ちゃんが声を出す。「タツ、学校行きなさい。自分が二日酔いなもんだから、タツにやらすコンタンなんだから」
ハツコが泣き出す。急いで飯をかっこんで、ハツコをあやしに行く。
「学校行くのよ!」
弁当を詰めながら、も一度母ちゃんが言う。父ちゃんは、声をださずに顔の前で手刀をきって、片目をつぶる。
「わかった」
ハツコを抱っこしながら、そう言った。

「父ちゃん、ハチ、ニーでええか?」
柿の木の下で父ちゃんは熟睡している。返事を諦めて、ニスとシンナー8対2くらいにする。よく混ぜて木塀に塗っていく。父ちゃんが塗り残したのは、内側の半分くらいだった。
 だいぶして、父ちゃんが起きてきた。
「頭、痛えか」
「痛い」
「向こう行って休んでろ。学校、いくんじゃねえぞ」
俺に代わって、父ちゃんが塗り始める。早いし、きれいだ。
「父ちゃん。俺の変なとこは直しといてくれ」
「ああ。早く向こう行って深呼吸してろ。学校、行くなよ」
作業場の家を出ると、川があった。降りて、顔をジャブジャブ洗う。川辺に座って深呼吸する。頭の奥がズキズキする。
川辺には丈の高い草が生えてて、黒いトンボがとまっている。手で払うと川を超えて向こう岸に行った。そこに、同じクラスのカナコがいた。川辺まで降りてこず、道のアスファルトの端に座って、こっちを見ていた。
「学校、行かねえの」
「タツは行かねえの」
「俺は父ちゃんの手伝い」
カナコは黙っている。赤いスカートをはいていた。
「パンツ見えるぞ」
「エッチ!」
でも、カナコは座ったまんまだった。
「お前は、何で学校行かねえの」
「学校は、おもろーないなあー」
「給食、食べんのか」
「パンは嫌い」
「ふうん」
しばらく座ってて、頭の痛いのが取れてきたので、作業場に戻った。父ちゃんは柿の木の下で寝ていた。仕事はほとんど進んでなかった。
 また頭が痛くなるまでに塗り終えた。戻って、父ちゃんが塗ったところを見た。やっぱり、さすが上手だと思う。
 眺めていると、父ちゃんがやってきた。終わりの方は、寝ながら俺が塗るのを見ていた。
「後でサイダーおごったる」
「腹減った」
「母ちゃんの弁当食うか」
「食う」
「あっち行って食え。俺は仕事終わりの挨拶がある」
「父ちゃんは食べないのか」
「二日酔い」
柿の木の下に弁当の包みがあった。それを持ってさっきの川に行く。
カナコはいなかったので、一人で弁当を食べた。

帰りにお店があって、父ちゃんがオロナミンCを飲んだ。サイダーのことは忘れていた。
「一緒に帰ったら、母ちゃん気がつくから、お前先に帰れ」
「飲みに行っても、今日は迎えにいかんぞ」
「ええから、早う帰れ」
「こんなに早う学校は終わらんぞ」
「頭痛うなったから帰ってきたって言え」
「パチンコして飲み屋か」
「うるさいわ」
頭をはたかれた。
「これ、乗って帰れ」
後ろが荷台になっている自転車をたたく。荷台にはニスとシンナーの缶とランドセルがある。自転車に跨って漕いだ。足が届かないので、二、三回漕いでから、ついて帰ることにする。父ちゃんはもういなくなっていた。
 家に帰ると、母ちゃんとハツコはいなかった。買い物かもしれない。弁当箱をどうしたものか迷ったが、水に漬けとくことにする。学校の帰りに父ちゃんに会ったことにすればいい。自転車もあるし。
 時計を見るとまだ2時だった。買い物には早過ぎるような気もした。
 暇なんで、ランドセルから国語の教科書を出して、漢字の勉強をする。
しばらくすると、カナコが、プリントに包んだ給食のパンを持ってきた。
「学校、行ったんか」
「退屈だから行った」
「面白かった?」
「おもろーなかったー」
ニッと笑ってカナコは帰って行った。
ああ、ハツコの健康診断に行くとか言ってたっけ。時計を見た。まだ、3時になってなかった。
 みんな早く帰ってくればいいのに、そう思って待っていた。時間が経つのが、やけに遅かった。

           了

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