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十二帖「須磨」角田光代訳源氏物語(にしても和歌が多すぎる)

須磨はええとこですね。神戸と明石の間辺りでしょ。神戸は清盛が福原京作ったくらいやから、平安の昔でも良港だったんじゃないですか。明石は明石焼きが美味しゅうございますね。タコ取れます。須磨。須磨もやっぱり「平家物語」。一の谷の後、平敦盛が熊谷次郎直実に討たれた地です。

泣く泣く首をぞかいてんげる

て、やつですね。敦盛かわいそ。今、銅像があるとか。
須磨は、平安の昔だったって、風光明媚なよろしい所だったんじゃないですか。
でも、源氏は泣きますな。こんなド田舎って。
だいたい身分の高い貴族なんて都から出ませんからね。お寺神社参り以外。清少納言が郊外いって、なぜあのように草がいっぱい植えてあるのか、ちて訊いて、それは稲だったって話もありますからね。
みんな源氏が須磨行くって聞いて、パプアニューギニアに永住するくらいに悲しむんですな。今生の別れみたいに。京から一日で行けちゃうんですけど。
で、みんな歌います。以下意訳。

故人が煙となった都の空から遠く去っていくんですね
BY大宮(葵の母)

せめて鏡に影だけでもお残しください
BY紫(本妻)

月がしばらく雲に隠れるだけなのです。落胆なさらないで
BY花散里(恋人)

水泡のように私も死んでしまいそう 
BY朧月夜(弘徽殿の妹)

院もあなたもいなくなる。出家したのに悲しい世です
BY藤壺(故院の妻)

御禊の日を思い出します。賀茂のご加護もないのですね
BY右近(従臣)

また都に戻れるでしょうか、山賤の身で
BY光源氏

またお帰りになって都をご覧になってください
BY王命婦(藤壺付きの女房)

この命にかえて、この別れを少しでも止めたい
BY紫(本妻)

しかし別れはきます。源氏は旅立ち、須磨に着く。

私が眺めている空は、都の人も眺めているのだろうか
BY光源氏

転居のご挨拶、大変です。都にいると、いずれ沙汰があり、流刑になる身。もはや無位無官とも、と源氏は言ってます。だから、先手を打って、自ら須磨で謹慎するんですね。なんの罪だかはわかりません。まあ、弘徽殿に嫌われた、ていうことなんでしょう。
歌、読むと哀切ですな。

で、これから須磨の生活始まるんか。どんな生活になるんやろ、思うて読み進めていくと、
こっからも和歌のオンパレード。旅立ちの時も、書き出したのは半分で、源氏の殆どの返歌は割愛した。全部書くと多すぎる思うたから。(アレ、ですます調でなくなってる)
須磨行ってからも、寂しいもんで、源氏手紙書く書く。和歌送る送る。返歌来る来る。
 普段、現代小説しか読まないもんで、これがなかなか読みにくい。勿論情感の発露が和歌にあることは学んだので、しっかり読む。読むけど、読み慣れてないもんで、和歌よんで、現代語訳よんで、もいっぺん和歌読んで、そんで現代語訳読んで、ああこの古語こんなふうに訳すのか、これは例えとるんやな、言外の意味ってやつか、皆まで書くと、雅やないもんな、ちて一向前に進まん。それが駄目って訳じゃなくて、それはそれでいいのだが、次々展開する現代小説に比べると、正直まどろこし感は否めない。源氏物語で挫折する人は、この読みにくさ、今と違うお話のスピード感に原因があるのやもしれない。
てことで、以下のやり取りはいちいち引用しないが、皆んな悲しんでるってことです。

 あと感じたのは、ああ、これ本格小説かも、てこと。作者紫式部は神の位置にいて、源氏の内面にも入るし、紫の内面に入るし、藤壺の、花散里の、朧月夜の、従者の内面にも入る。今までは、どっちかいうと源氏中心で、他の人の内面は書かれてはいるが、そう突っ込んで書かれてない。が、ここでは、和歌があり、その歌を詠んだ内面がありで、その連続なんで、神視点感が半端ない。
読んでて、漱石の「明暗」を連想した。「明暗」も登場人物の内面が丁寧に書かれる。登場人物の心理戦に評価が高い。だが、悪口に"操り人形みたい"てのがある。登場人物の行動も内面も書ききってしまうと、登場人物が、作者の考えるストーリーを忠実に演じる人形のように見えてくるんである。
普通、我々は生活のなかで、自分の内面は勿論自分だから、わかる。逆に、他人の内面はわからない。多分、こんなこと思ってるんじゃないかなぁ、て思うだけである。だから、そういうスタイルで書かれる一人称小説は、書くだけでリアリティが生まれる。読者の感じ方と一緒だからである。主人公に自分を重ねても違和感はない。
けれど、登場人物の全ての人の内面が書かれてしまうと、読者は単純に主人公に自分を重ねられない。必然、読者は俯瞰して、物語を見るようになっていく。リアリティが薄れるので、人物への没入感が薄まる。そういう小説は代わりに、物語の面白さで引っ張るのだが、残念ながら、須磨の巻は、この辺までは劇的ではない。だから、読めば読むほど、私は冷めていった。女性たちの、源氏の、和歌を読めば読むほど、別れの悲しみが身に沁みて募るはずなのに、そうはならない。
これは私の問題なのだろうか。私の感じ方がおかしいのかなあ。うーむ、まだ分からん。

ともあれ、物語は続く。源氏は身を菅原道真や中国の故事と引き比べたり、漁民の話を聞いたりして無聊を慰める。弘徽殿の邪魔で文も人も来なくなる。土地の入道が娘を源氏と縁づけたいと思っている。咎を承知で、三位中将(頭中将)が尋ねてきたりする。いいやつだ。中将が去って、源氏は寂しさの余り、心身を祓う巳の日の禊を海辺で行うこととした。海辺で身の潔白の歌を詠むと、天は俄かに掻き曇り、大嵐となる。夜、寝てると、龍王らしき者が現れ、なぜ宮中に参上しない、と源氏をなじり部屋を歩き回る。源氏はゾッとし、改めてまた、この鄙びた土地が厭わしくなる。

須磨迄は読めた。「須磨源氏」に追いつき、ようやく人並みになれた。

てことで、ちょっと休憩する。

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