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平野啓一郎「鏡と自画像」

平野啓一郎さんは京大在学中に「日蝕」で芥川賞をとる。「薔薇の名前」ばりの西欧中世の話を擬古典調の華麗な文体で書いた。と思う。読んだがもう忘れた。また、去年だったか「三島由紀夫論」を発表された。雑誌連載の頃、とびとびだけど読んでいた。とびとびだけど、読んだところは、とても面白かった。今、男子純文学界の希望の星らしい。知らんけど。

で、本作であるが、わたしには全くついてけない。論理が錯綜して、頭の中で整理できひん。円城塔さんに続き、トホホである。もう仕方ないので整理できないまま書く。

まず読んで、「僕」の表記が異常に多いと思った。

僕は・僕が・僕の・僕を・僕に。僕。僕。僕。・・・。

ところが、見返してみると、そんなに多くない。最初の手紙のとこなど、一人称は「私」でさえあった。
どうして「僕」が異常に多いなどという印象を持ったのか。それは多分この話が「僕」の自意識を巡る物語だったからだろう。

僕は申請して三人の無差別殺人を行えば、死刑になれる世界に住んでいる。 
僕は親に愛されず虐待されて育つ。中学から友人はいない。高校卒業後は派遣の仕事で糊口をしのいでいる。僕は自分を嘲笑することにくたびれ果てている。
僕は死刑になりたい。死刑という形でも、僕は国家に自分を認識して欲しい。

承認欲求である。誰にも承認されなかった僕は、最期に国家に認めてもらって死にたいのだろうか。

惨劇の場所を僕は上野の西洋美術館に決める。そこで僕はドカの自画像を見る。それは僕に一つの記憶を呼び起こさせた。
高校の美術室に、ドガの自画像が貼ってあった。僕は美術教師に質問する。
「画家の自画像は、どうして真正面を向いていないのですか」
なぜだと思う?という教師の問いかけに、僕は、
「勇気がないから」
と答える。

実際は、鏡に映る自分を描くので、角度的にそうならざるを得ないらしい。
しかし、僕の発言の方が正解なら、本当の自分を見せる勇気のない人間の顔を、私たちは見ていることになる。

僕はドガの自画像のポスターをもらって帰る。そして鏡に自分の顔を映してみる。僕はこれは他人の顔ではないかと思う。

自意識が分裂し始めている。

僕は、ドガを眺め、鏡を眺め、際限のないお喋りを始める。鏡の前でいろんな人になって会話を続ける。他人との関係の回復の為に。
しかしポスターは、僕を嘲笑する兄によって、裂かれてしまう。僕の目論見は破れた。
他人との関係修復の訓練は最早できなくなる。

結局、美術館で「計画」を実行しなかった僕は、ドガの自画像の絵葉書を買って帰る。パソコンで美術教師の名前を検索する。彼女は著名なイラストレーターになっていた。その背中を押したのは僕だと彼女は言った。彼女は僕を鏡にして勇気を持てた。

僕はドガの絵葉書と鏡相手の会話を再開する。鏡ごしの会話は、他人として自分を見て、見られた自分を自分に統合する訓練に変わった。

これは多重人格の患者の治療に似ている。分裂した自分を認識し、ひとつの人格に統合する治療法だ。

他人として鏡に映る自分は誰なのか。
「純粋な他人」
「誰でもいい他人」
「理想的な他人」
様々なことを僕は思う。

画家はなんのために自画像を描くのか。鏡に映る他人としての自分を本来の自分と統合するためか。なのに描かれた自画像は正面を向いてはいないのだ。

現実の世界で他人に接する時、僕は彼らの自画像と対面している。つまり、正面を向いた彼らではない。本当の彼らではない。僕も鏡に映った自分の姿を他人に見せようとする。僕ではない「純粋な他人」を。

僕が微笑むから鏡の僕は微笑むのか、鏡の僕が微笑むから実際の僕が微笑むのか。
僕が微笑むから、他人は微笑むのか。他人が微笑むから僕は微笑むのか。

これらの思考は、やはり自意識が分裂しているとしか思えない。その原因を僕はこう考える。

僕が微笑んでも、他人は微笑んでくれなかった。
他人が微笑んでも、僕はぼんやりしていた。

不幸にも僕と他人との関わりはこうだった。他人は僕を認識しない。僕も他人を認識できない。中学以降、僕はゆっくりと分裂していったのだろうか。

やはり他人が僕を認識するには、僕が他人に認識されたと思えるには、僕が死刑になるしかないのか。

死刑になるには、三人の無差別殺人が必要だ。無差別ということは無関係ということだ。「純粋な他人」ということだ。美術教師を殺しても、「純粋な他人」にはならない。
しかし、待て。「純粋な他人」とは、鏡に映った自分ではなかったか。僕はそう言わなかったか。そうであるなら、僕はまず自分を殺すべきだということになる。いったい僕は誰を殺せばいいのか。

三人と言えば、父母兄で三人になる。自分の自意識が破壊されるきっかけを作った三人だ。だが三人は「純粋な他人」ではない。いったい僕は誰を殺せばいいのか。

僕は「計画」を延期する。そして、その間に、無差別殺人が起こる。僕は犯人を自分だと思った。逃げ惑い苦しむ人々は、フレームがついた四角い鏡のような自画像をかぶっていた。彼らは、お互いを映しあい、同化し、連動していた。死んでる人も生きてる人も同じで、同じではない。自画像は自分であって、自分ではないからだ。

分裂しているのは僕だけではない。みな同じだった。誰もが本当の自分を生きてはいなかった。

僕は鏡を見る。今となっては誰になって見ていいのかわからない。「純粋な他人」などどこにもいない。自画像をかぶった偽りの他人がいるばかりだ。

物語の終わり、僕は楽しく会話のできる人を三人持てたと言っている。他人と関係が持てるようになっている。僕は自画像をかぶると決めたのだろうか。

     ✴︎

安部公房に「他人の顔」という小説がある。映画も見た。事故で顔を火傷した男が精巧な他人のマスクを被って妻を誘惑する。だが、妻は最初から男が夫だと知っていたと告げ、立ち去る。打ちひしがれた男は「俺は誰でもない、純粋な他人だ」と言う。
映画の終わりに人混みが映る。彼らは皆、マスクをかぶり他人の顔をしていた。

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